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セックスについて、Osho からの引用

セックスについて、Osho からの引用

 

性生活のなかで瞑想的になることができたなら……

 「あなたの愛する人の手を握って、どうして静かに坐れないのか? どうして目を閉じて感じることができないのか? 相手の存在を感じ、相手の存在のなかに入り、相手の存在を自分のなかに入らせる。いっしょにふるえ、いっしょに揺れる。突然、大きなエネルギーにとりつかれたら、いっしょにダンスする──するとあなたたちは今まで一度も感じたことがなかったような歓びのオルガスムのようなピークに到達する。このようなオルガスム的なピークはセックスとはなんの関係もなく、じつのところ、静寂と大きな関係がある。

 そして性生活のなかで瞑想的にもなることができたなら、ある種のダンスのように、愛を交わしているときに静かになることができたなら、あなたは驚くだろう。あなたにはもっとも遠い岸辺にまでつれて行ってくれるプロセスが内蔵されている」

Osho,  The Book of Wisdom, #7 より抜粋

 

 

セクシュアルであればあるほど、その人はいっそう知性的だ

 「だから、性的であればあるほど、その人がいっそう創意に富んでいる、ということが実際にある。性的であればあるほど、その人はいっそう知性的だ。性的エネルギーが少ないと、知性も少なくなる。性的エネルギーが多いと、いっそう知性的になる。というのも、セックスは肉体的なものだけでなく、相手の性的な肉体だけでなく、隠れているあらゆるものを明るみに出そうとする深遠な探求だからだ」

 Osho,  The Beloved, Vol. 2, #2 より抜粋

 

 

セックスは可能性だ

 「愛があなたを通じて表現されるとき、それは最初に肉体として表現される。それはセックスになる。それがもっと高く、深く、微妙な心を通じて表現されれば、それは愛と呼ばれる。それが精神を通じて表現されれば、それは祈りになる……。

 すべてがうまくいっていて、セックスが自然で、あふれるようなものだったら、それはすばらしい経験だ。なぜなら、あなたはそれを通じて第二のものの一瞥を得ることができるからだ。セックスがほんとうにとても深くまで行ったら、あなたはそのなかで自分のことを完全に忘れてしまい、それを通じて第三のものの一瞥すら得ることができる。そしてセックスが全面的にオルガスム的な経験になったら、あなたがそれを通じて第四のもの、トゥリヤ、「彼方」の一瞥を得るまれな瞬間さえあるかもしれない。

 だが、セックスが失敗したなら、多くの倒錯が心に起こってくる。このような倒錯は憎しみとして表現される。憎しみはセックスの失敗であり、愛のエネルギーの失敗だ。暴力、金銭的な欲望、エゴのつねに争おうとする姿勢。戦争、政治──こういったものはみなセックスの倒錯だ。

 性的に倒錯していない人は政治家になれない。それは不可能だ。政治家というものはみな深い性的なセラピーが必要であり、そうでないと、彼らの全エネルギーはもっともっと多くの政治的なパワーを得るために動きつづけるだろう。セックスが自然だと、あなたはパワーを感じので、それを追い求めることはない。セックスは可能性であり、パワーだ。あなたはそれが自分に降り注いでいるのを感じるから、それを追い求めたりはしない。だが、それをそこで見逃してしまうと、パワーを求めようとする巨大な衝動が起こってくる。政治が生まれる。すると戦争が、絶え間ない暴力が生まれてくる。憎しみ、怒り、ありとあらゆるタイプの倒錯が」

Osho,  Talking Tao, #1 より抜粋
 

 

愛はセックスに新しい魂を与えることができる

 「愛はセックスに新しい魂を与えることができる。そのときは、セックスは変貌する。それは美しくなる、それはもはやセックスではない。それは超えたものの何かを内包している。それは架け橋になったのだ。 

 あなたが人を愛せるのは、その人があなたのセックスを満足させてくれるからだ。これは愛ではない、取引きにすぎない。あなたは愛しているがゆえに、人とセックスすることができる。そのときは、セックスがまさに愛の影、愛の一部のように、後に続く。そのときは、それは美しい。そのときは、それはもはや動物界のものではない。そのときは、超えたものの何かがすでに入り込んでいて、あなたがある人を深く愛しつづけたら、徐々にセックスは消える。親密さがとても充実したものになるから、セックスは必要ない、愛だけで充分だ。その瞬間が訪れると、祈りの質があなたに明らかになる可能性がある。 

 ふたりの恋人がとても深く愛しているために、愛で充分であり、セックスはただ落ちているとき――それが落とされたということではない、それが抑圧されたということではない。それは、後に痕跡すら残さずに、あなたの意識からただ消えたのだ。そのとき、ふたりの恋人はそれほど完全に一体となっている……。なぜなら、セックスは分けるからだ。『セックス』という言葉そのものが、区別を意味する語源から派生している。愛はひとつにする、セックスは分ける。セックスは分離の根本的原因だ」

 「女であれ男であれ、ある人とセックスをすると、それが自分たちを一体にすると、あなたは考える。しばらくのあいだ、それはあなたに合一の幻想をもたらすが、突然、広大な隔たりが割って入る。このために、性行為をするたびに、失望、落ち込みが入り込む。自分は愛する人から遠く離れてしまった、と人は感じる。セックスは分離するが、愛がもっともっと深まって、もっともっと一体になっていくと、セックスは必要ではなくなる。あなたたちの内なるエネルギーはセックスなしで出合うことができ、すばらしい一体感のなかで生きるようになる」

Osho,  Yoga: The Mystery Beyond Mind, #8 より抜粋

 

 

愛は危険だ、セックスは危険ではない

 「愛を恐れる人たちはセックスを恐れてはいない。愛は危険だ。セックスは危険ではない、それは巧みに扱うことができる。今では、それをどうやって行うかという、たくさんのマニュアルがある。あなたはそれを巧みに扱うことができる──セックスはテクニックになりうる。愛はけっしてテクニックにはならない。セックスのなかでコントロールしつづけようとしたら、セックスでさえ究極へ到達するための助けにはならないだろう。それは一定の地点まで行くが、また戻ってきてしまう。なぜなら、どこかで、それもまた手放しを必要とするからだ。

 オルガスムがますます困難になってきたのはそのためだ。射精はオルガスムではない、子どもをつくることはオルガスム的ではない。オルガスムは全身が関与することだ。心、肉体、魂、すべてがいっしょに。あなたはうちふるえ、あなたの全存在がうちふるえる、つま先から頭のてっぺんまで。あなたはもはやコントロールしていない。実在があなたをのっとり、あなたは自分がだれなのかわからない。それは狂気のようだ、それは眠りのようだ、それは瞑想のようだ、それは死のようだ」

Osho,  Returning to the Source, #10 より抜粋

 

 

セックスは源

  「セックスはあなたに、生のリアリティとはなにかに対する答えを与えることができる。それは、セックスがあなたの中でもっとも生気あるものだからだ。マインドはあなたの中のもっとも生気のないものであり、セックスはあなたの中のもっとも生気あるものだ。だからこそ、マインドはつねにセックスに反対し、マインドはつねにそれを抑圧することに賛成する。彼らは敵同士だ。マインドは生命のない物であり、セックスは生命力だ。彼らは戦いつづける。そして、あなたがセックスに入っていくたびに、マインドは欲求不満になり、マインドは言う、『これは間違いだ。二度とそこに入ってはいけない』

 マインドは道徳を説く人になる、マインドは厳格主義者になる、マインドは聖職者になる。マインドは非難しつづける。生気に満ちたものすべてをマインドは非難しつづけ、死んでいるものすべてをマインドは崇めつづける。そして、生はセックスを通じて来るのだから、セックスはあなたの中のもっとも生気あるものだ。あなたはそれを通じて生まれている、あなたはそれを通じて誕生させることができる。生が、生気があるときは必ず、セックスが源だ」

Osho,  The Supreme Doctrine, #14 より抜粋

 

 

彼らはそれ以外のタイプの人間を知らない

 「愛はセックスの前戯に他ならないと心理学者たちは言う。彼らは正しい──彼らには他に研究する実例がないからだ。彼らはあなたを研究し、そして愛は前戯に他ならないと結論を下す ──セックスが起こる状況を作りだすためだけで、他には何もない。だからセックスが起こったとき、愛は消える。ちょうどあなたが腹を空かしていて食べ物に引きつけられ、食べ物をうっとりした目で見るようなものだ。だが腹が満たされたら、食べ物から目を逸らす。もう魅力はまったくない。

 だからあなたが妻、あるいは夫を愛するとき、その愛はセックスへ入るためのエチケットだ──ただ始めるのはあまりにも無作法だからだ……。だから、それは潤滑剤のような役割を果たす。そして、セックスが満たされたら、夫はベッドの自分の側に動いて眠る。もう済んだのだ。魅力はすべてなくなってしまった。再び同じ飢餓感が起こったときだけ、それが起こるだろう。愛はセックスの前戯に他ならないと心理学者たちは言う ──ただのマナー。そして、彼らは正しい──彼らはそれ以外のタイプの人間を知らないからだ」

Osho,  The Supreme Doctrine, #5 より抜粋

 

 

死とセックスにまつわる偽りの現象

 「人間はセックスと死の両方を恐れている、と私は言った。だからそれらはタブーだ。だれもセックスについて話さないし、だれも死について話さない。私たちはこの二つのことについては沈黙している。私たちは何百年も何百年も沈黙してきた。それらはタブーとされる話題であり、それらは言及さえすべきではない。それに触れたとたんに、私たちのなかでなにかが震えはじめる。

 そこには深い抑圧があるのだろう。だから私たちは代わりとなる言葉を考え出した。西洋世界では『セックスをする』とは言わない。彼らは「愛を交わす」と言う。それは代理の言葉だ――そして欺瞞的だ。なぜなら、愛は全面的に異なる次元だから。セックスはセックスであり、愛を交わすのではない。愛にセックスは含まれるかもしれないが、愛には完全に異なった質がある。

 私たちは死について率直に話さない。だれかが死ぬと、私たちは代わりの言葉を使う。私たちは彼は神に召されたのだ、彼は天国に行ったのだと言う。死にじかに向き合うことはけっしてない。

 私たちは死とセックスの周辺に多くの偽りの現象をつくりだした。二人の人が結婚しようとしているとき、セックスのことは話題にすら上らない――彼らはセックスのために結婚するというのに! 私たちは結婚の周囲に巨大な幻想を築き上げたが、むき出しの、裸の事実はセックスだ。私たちは儀式を、大げさな結婚の儀式をつくりだしたが、それは事実を隠すためでしかない。どうしてだろう?

 この二つのことだけに、なぜタブーがあるのだろうか? それらは深くかかわりあっている。それらが関係している理由はこれだ――第一に、あなたはセックスから生まれる、誕生とはセックスだ。そして誕生と死はひとつのことの両極だ。誕生のなかに、死が隠れている。人間がセックスと死の深い関係を意識するようになったのはそのためだ。死はセックスなしでは起こりえない、誕生がセックスなしでは起こりえないように」

Osho,  The New Alchemy: To Turn You On, #24 より抜粋

 

 

私たちはセックスを恐れている

 「人類がセックスに対する抑圧を解かない限り、人は真に呼吸できない。息が深く腹にまで達すると、性センターはエネルギーを得る。息は性センターに触れ、性センターを内側から揉みほぐす。性センターはもっと生き生きと活動的になる。文明はセックスを恐れる。子どもたちが性センター、性器に触れるのを私たちは許さない。『やめなさい! 触っちゃだめ!』と言う。

 子どもが初めて性センターに触ったとき、その様子を観察してごらん。そして『やめなさい!』と言って、子どもの呼吸がどうなるか観察してみる。『やめなさい! そこに触っちゃだめ!』と言うと、子どもの呼吸はたちまち浅くなる──性センターに触っているのは彼の手だけではなく、深いところで息がそれに触っているのだ。息が性センターに触れ続けているとき、手だけをやめるのは難しい。手がとまるには基本的に息が性センターに触れていないということと、息が深く入っていないということが必要だ。つまり息を浅く保つことだ。

 私たちはセックスを恐れている。下半身はたんに物理的に下にあるだけではなく、価値的にも下にある。つまり『下のもの』と貶められている。だから『深く息を入れずに、浅く息をしなさい。私たちが下向きにしか呼吸できないのは残念なことだ』となる。説教家の中には、できることなら呼吸の構造そのものを変えたいと思う者もあるだろう。きっと彼らは頭に向かう上向きの呼吸しか許さないだろう。それではセックスはまるで感じられなくなってしまう。

 もしセックスのない人間を創りたいなら、呼吸のシステムを変えることだ。つまり息が頭の中へ、サハスラーラ──頭にある7番目のセンター──へといき、それから口へと戻ってくるシステムだ。口からサハスラーラへ、それが経路となる。下へいってはならない。下は危険だからだ。深くいけばいくほど生物学的に深い層に入っていき、そして中心へと到達する。その中心は性センターのすぐ近くだ。当然のことだ。なぜならセックスとは生そのものだからだ」

Osho,  The Book of Secrets, #3 より抜粋

 

 

神性への歩み

 セックスエネルギーの霊的な重要性について、説明して下さい。どうすればセックスを昇華させ、霊的なものにすることができるでしょうか? 瞑想として、より高い意識のレベルへのジャンプ板として、セックスをしたり愛を営むことは可能でしょうか?

 「……あなたは『セックス』と『愛』という言葉を用いた。普通、私たちは、両方の言葉が内なる関連性を持っているかのように用いる。それらに関連性はない。愛はセックスが消えたときにしか起こらない。それ以前では、愛は単なるおとり、前戯以外の何ものでもない。それはただ、性行為の下準備だ。セックスへの導入、前置きにすぎない。だから、ふたりの人間の間にセックスがあればあるほど、前置きは必要とされないゆえに、愛はより少なくなるだろう。セックスが瞑想になる時、それは愛を花開かせる。そしてこの開花は、神性へと向かう動きだ。

 私はセックスに反対していないし、愛に賛成でもない。あなたはさらに、それを超越しなければならない。それに瞑想するがいい、それを超越するがいい。瞑想とは、あなたが完全に油断なく、気づいて、それを通り抜けなければならないということだ。盲目的に、無意識に通り抜けてはいけない。すばらしい至福がある、しかしあなたは盲目的に通り過ぎることもでき、それを逃してしまう。この盲目性が変容されなければならない――あなたは目を見開かなければならない。目を開いていれば、セックスはあなたをひとつ在ることへの道へ、連れて行くことができる」

Osho,  The Psychology of the Esoteric, #3より抜粋

 

 

セックスから瞑想を創造しなさい

 「あなたがセックスを通して瞑想に入っていけばいくほど、セックスは影響力を持たなくなる。セックスから瞑想が育ち、育っていく瞑想によって新たな扉が開いて、セックスは徐々に薄れていく。それは昇華ではない。ちょうど枯れ葉が木から落ちるようなものだ。木は、葉が落ちることを知りもしない。同様にあなたは、セックスへの機械的な衝動が消えていくのを知ることもない。

 セックスから瞑想を創造しなさい――セックスを瞑想の対象にするがいい。それを寺院として扱うがいい。するとあなたはそれを超越し、そしてあなたは変容する。その時、セックスはあるだろうが、どんな抑圧も、どんな昇華もない。セックスはただ重要ではなくなり、無意味になる。あなたはそれを超えて成長した。今やそれは、あなたにとって意味がない。

 それは子どもが成長するのと同じだ。今やおもちゃには意味がない。彼は何も昇華していない。彼は何も抑圧していない。彼はただ成長した。彼は成熟したのだ。今やおもちゃは無意味だ。それらは子どもじみていて、今やその子はもう子どもではない。

 同様に、あなたが瞑想すればするほど、セックスはあなたにとって魅力的ではなくなる。そしてだんだん、自然に、セックスを昇華させようという意識的な努力もなしに、エネルギーは流れ込む新たな源を持つ。セックスを通して流れていた同じエネルギーが、今や瞑想を通して流れる。そしてそれが瞑想を通して流れる時、神性な扉が開かれている」

Osho,  The Psychology of the Esoteric, #3より抜粋