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About Meditation? 走ることと瞑想は、関係がありますか?

走ることと瞑想は、関係がありますか?

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あなたは、走ることが瞑想だとは考えないだろう。しかし、走者は時として、途方もない瞑想体験を感じることがある。彼らは驚いてしまう。なぜなら、彼らはそれを探し求めていた訳ではないのだから。誰が、走者は神を体験するなどと思うだろう。しかし、それは起こっている。今では走ることは、新しい種類の瞑想になりつつある。

それは、走っているうちに起こりうる。もし、あなたが一度でも走ったことがあれば、あなたが早朝、空気はすがすがしく清新で世界中が眠りから目覚めようとする時、ランニングを楽しんだことがあれば。あなたは走っていて、あなたの体はすばらしく運動している。そして、新鮮な空気、新しい世界が再び夜の暗闇から生まれ、あなたの回りですべてが歌い、あなたはとても生き生きとしている。そんな時、走者が消え去り、走ることだけが残る。体と、マインドと、魂が一緒に働き出して、内面の絶頂感が解き放たれる。

走者は、時として偶然に第四、トゥリアの経験に遭遇することがある。しかし、彼らはそれを逃してしまうだろう。なぜなら、それは単にその瞬間に走ることを楽しんでいたから、とても美しい日だったから、体は健康で、世界は美しかったから、そして、それは単にある種の気分だったと考えるからだ。彼らは、気にも留めない。もし、彼らがそれに注目していたら、私の観察では、走者は他の誰よりも簡単に瞑想に近づくことができる。ジョギングはとてつもない助けとなる。水泳はとてつもない助けとなる。これらすべてが、瞑想に変容されなければならない。

ただ、木の下にヨーガの姿勢で座っていることが瞑想だというような、古い瞑想に関する考え方を捨てなさい。それは、ひとつのやり方にすぎない。そして、ほんの一握りの人たちに合っているが、すべての人に適しているわけではない。

小さな子供にとって、それは瞑想ではなく、拷問だ。生き生きした活気に満ちた若者には、それは抑圧であり、瞑想ではない。

充分に人生を生きて、エネルギーが低下している老人にとっては、それは瞑想かもしれない。人はそれぞれ異なっていて、いろいろなタイプの人がいる。低い種類のエネルギーを持つ人には、木の下でヨーガの姿勢で座ることは、最上の瞑想かもしれない。なぜなら、ヨーガの姿勢はエネルギーを最も少なく、最小の量、消費するものだからだ。背骨を真っ直ぐ伸ばし、地面と90度の角度に保つと、体は可能な限り少量のエネルギーを費やす。もし、あなたが左か、前方かに向かって傾いていると、体はより多くのエネルギーを費やす。なぜなら、重力があなたを下に引っ張りだすと、あなたは姿勢を保つために、倒れないように自分を支えなければならないからだ。それは、エネルギーの消耗だ。直立の背骨は、エネルギー消費を最も少ししか必要としないことが知られている。

そして、両手を重ねてひざに置くのも、エネルギーの低い人にとってはとても有益だ。なぜなら、両手が触れ合っていると、体に流れる電流が輪を描いて回り始めるからだ。それは、体の外に出ることがない。それは、あなたの内側に動くエネルギーの環となる。

エネルギーは、常に指先から放出されていることを知っておくべきだ。エネルギーは丸い形のものからは放出されることはない。例えば、あなたの頭はエネルギーを放出することはない。それは、エネルギーを保持する。エネルギーは、足と手の指先から放出されている。ヨーガの姿勢のひとつで、足を合わせるものがある。片方の足からエネルギーが放出され、もう片方の足に入っていく。片方の手から放出されたエネルギーは、もう片方の手に入っていく。あなたは、自分自身のエネルギーを取りこみ続け、あなたは、内側でのエネルギーの環となる。それは、とても休まり、リラックスさせる。

ヨーガの姿勢は、可能な限り最もリラックスした姿勢だ。それは、眠りよりもリラックスさせる。なぜなら、あなたが眠っている時、あなたの全身は重力に引っ張られているからだ。横になった時は、あなたはまったく違ったやり方でくつろぐ。それは、人間が水平歩行する動物であった大昔にあなたを連れ戻すからだ。それは、あなたをくつろがせる。なぜなら、それは退行だからだ。それは、あなたが再び動物になるように助ける。

それが、あなたが寝る姿勢をとっていると明晰に考えられない理由だ。考えることが難しくなる。試してごらん。簡単に夢を見ることはできるが、考えることは難しい。考えるためには、座らなければならない。直立に座れば座るほど、よりうまく考えることができる。考えるということは、後になって生まれた。人間が直立するようになってから思考は生まれた。人間が水平だった時には、夢を見ることはあっても、考えることはなかった。それだから、あなたは横になると、夢を見だし思考は消える。それは、一種のくつろぎだ。思考が止まりあなたは退行するからだ。ヨーガの姿勢は、エネルギーが低い人、病人、老人、生涯を終えて今や死にだんだんと近づきつつある人にとってはよい瞑想だ。何千人もの仏教の僧侶が、結跏趺坐の姿勢で死んでいる。なぜなら、死を迎える最良の方法は、結跏趺坐だからだ。結跏趺坐の姿勢で、あなたは油断なく目を見張っている。そして、エネルギーは徐々に少なくなって消えていく。死がやってくる。結跏趺坐の姿勢で、あなたは、最後の瞬間まで油断なく目を見張っていることが可能だ。そして、死に際して油断なく目を見張っていることは、偉大なる経験のひとつ、究極の絶頂体験だ。

そして、もし、死に際して目覚めていられたら、あなたはまったく違った種類の誕生を迎えるだろう。あなたは、目覚めて生まれる。目覚めて死んだ者は、目覚めて生まれる。無意識に死んだ者は、無意識に生まれる。覚醒のうちに死んだ者は、自分に最も適した子宮を選ぶことができる。彼には、選択権がある。彼はそれを受けるに値する。無意識のうちに死んだ者は、子宮を選ぶ権利はない。子宮は、無意識のうちに偶然選ばれる。

この生で、完璧に油断なく目を見張って死んだ人は、もう一度だけこの世に戻ってくるだろう。なぜなら、その次の時は戻ってくる必要はないからだ。ほんの少しのワークが残されている。そのワークを終えるのは来世で充分だ。覚醒して死ぬ者には、たったひとつのことが残されている。彼には覚醒を慈悲へと拡散する時間がなかった。来世で彼は、覚醒を慈悲へと拡散することができる。そして、覚醒が慈悲へと変わらない限り、何かが完結せず、何かが不完全なままになる。

走ることは、瞑想になり得る。

ジョギング、ダンス、水泳、何であれ瞑想となり得る。私の瞑想の定義は、あなたの体とマインドと魂がひとつのリズムで機能している時、それが瞑想だ。なぜなら、それは第四を呼び起こすからだ。そして、もし、あなたがそれらを瞑想として、油断なく目を見張ってやることができたら、オリンピックに参加するためではなく、瞑想としてやることができたら、それは、途方もなくすばらしい。

新しいコミューンでは、ありとあらゆる瞑想が導入されるだろう。水泳が好きな人には、水泳瞑想に熱中する機会が与えられる。走ることが好きな人は、何マイルも走るグループが与えられる。それぞれがその必要に応じて。そうあって初めて、この世界は瞑想でいっぱいになる。それ以外に方法はない。

もし、決まった型の瞑想だけを与えられたら、それは少数の人たちにのみ適用できる。流動的でなく、決まった瞑想の型、それは、過去に起こった問題のひとつだ。特定のタイプの人にだけ適して、残りの人たちは暗闇に取り残される。

私の努力していることは、瞑想を万人の手の届くようにすることだ。

瞑想したい人は誰であろうと、その人のタイプに応じた瞑想が手に入るべきだ。彼が休息を必要としていたら、休息が彼の瞑想であるべきだ。そうしたら、「沈黙のうちに座り、何もしないと、春が来て、草はひとりでに生える。」それが、彼の瞑想になる。私たちは、世界中の人々と同じ数ほどたくさんの瞑想の次元を見つけなければならない。そして、型は決められていないほうがいい。なぜなら、二人として同じ人はいないからだ。型は流動的で、各個人に適合するようにならなければいけない。過去には、個人は型に適合しなければならない習慣だった。

私は革命的だ。個人は、型に適合する必要はない。型が、個人に適合しなければならない。私は、個人に対して絶対的な敬意を寄せている。手段については、あまり気遣うことはない。手段を変えて、違ったやり方でやってもかまわない。

それが、あなたがここでとても多くの瞑想が起こっているのを発見する理由だ。私たちはここでは充分な機会が与えられていない。そうでなければ、あなたは神の寺院にどれだけ多くの扉があるかということに驚嘆することだろう。そして又、他の誰のためではない、あなただけのための特別な扉があることにも驚くだろう。それは、神のあなたへの愛だ。あなたへの尊敬だ。あなたは、公共の入口からではなく、特別な扉から迎え入れられる。あなたは、特別な客として迎えられる。

しかしながら、基礎となる根本は、どんな瞑想であれこの必要条件を満たさなければならない。体とマインドと意識、この三つがすべて統一性をもって機能すること。そうすると、ある日突然、第四が現れる。それを観照、あるいは神と呼んでもいい。神、ニルヴァーナ、タオ、もしそう呼びたければ何と呼んでもいい。

The Book of Wisdom, Chapter 23

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