Quantcast

About Meditation? マインドを使うべき時は、ありますか?

<< Back

 社会に対して、マインドを使いなさい。マインドは、あなたを独立させておくための、油断なくさせておくための、完璧な手段だ。それはよい戦闘家だが、恋人ではない。だから、戦う必要があるとき、あなたの自由のために立ち上がる必要があるとき、マインドを使うがいい――ハートは使いものにならないだろう。ハートは、戦い方をまったく知らない。

 しかし、それらを使う状況は完全に異なっている。そして私は、それぞれの正しい状況において自分の能力を使うことができ、ごちゃ混ぜにしないひとのことを、意識的と呼ぶ。目は見るためのもので、聞くことはできない。そして、耳は聞くためのもので、見ることはできない。だから、いつでも必要があるとき、それらを使いなさい。そして互いの道に、入り込ませないようにしなさい。

 マインドは美しい道具だ。それは研ぎ澄まされなければならないが、その限界を覚えておくがいい。それはハートの奴隷にとどまるべきだ。それが主人になる瞬間、ハートはただ死んでしまう。奴隷の状態にあっては、ハートは存在できない。

 だから私の言ったことに矛盾はない――ただ、ふたつの異なった状況だ。そしてあなたの意識とは、そのどちらでもない。だから意識的なひとは、必要なときにハートを使うことができ、必要なときにマインドを使うことができる。そして、マインドもハートも必要としない、ニルバーナの状態にあることを完全に欲するとき、両方を沈黙させることができる。彼がただ自分自身でありたいとき、どちらも必要ではない。

 もしあなたが自分の道具のマスターなら、問題は何もない。もしあなたがフルートを持っていて、私が「しばらく吹くのをやめてもらえませんか? あなたと話がしたいので」と言い、あなたが「それはできない。フルートが止めたがらないのだ」と答えたら、あなたは何と思われるだろう? あなたは狂人だ。フルートが止めたくない? それならあなたがフルートを奏でているのではなく、フルートがあなたを使っているのだ。あなたがマインドを止めたいとき、ただ「ストップ」と言いなさい――それは止まるはずだ。もしほんの少しでも動くなら、早急に何かがなされなくてはならない。それは危険だ――奴隷が主人になろうとしている。奴隷は奴隷にとどまり、主人が主人であるべきだ。そしてその両方を超えたところに、奴隷でも主人でもないあなたの実存がある......それはただ単に、在る。その「在ること」が、すべての瞑想のゴールだ。


Osho: The Path of the Mystic, #37

<< Back