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OSHO Times Emotional Ecology 「~からの自由」と「~への自由」

「~からの自由」と「~への自由」

 あなたの「感情のエコロジー」へのアプローチを要約するとしたら、「それは抑圧からの解放である」と言っても間違いではないでしょうか?

 あなたはまったく正しい。だが、否定的にだけ。抑圧から解放されることは否定的な部分だ、そして隠れているもの、潜在しているもの、あなたの運命であるものを表現することが肯定的な部分だ。だが、あなたは正しい、というのも、否定的なものが最初にこなければならないからだ。抑圧から解放されないかぎり、あなたは自分自身を表現できない。あなたは自分に潜在しているものを実現できない。

 社会は個人を犠牲にして成立する。それは今日までは、そのようにして存続してきた。個人は自分自身を表現する完全な自由を与えられていない。この抑圧を通して、社会はあなたが搾取されうるイメージをつくる。

 例えば、個人が全面的に表現するようになれば、世界に戦争はなくなるだろう。それは起こりえない。だが、個人を抑圧すれば、そこに抑圧されたエネルギーが存在するようになり、それは暴力のために使うことができる。政治というものはすべて、人類の歴史はすべて、戦争に依存している。社会全体が戦争に依存してきたが、戦争は、個人が自分自身を表現することが許されない場合にのみ可能となる。

 この抑圧されたエネルギーは多くの理由から、多くの原因によって、多くの目的のために利用されてきた。戦争のため、政治のため、搾取のために。私はすべての抑圧に反対する。私は自然な成長に賛成する。

 私は規律には反対しない。私は抑圧に反対する。規律は創造的なものだ。それはけっしてなにかに対立しない。それはつねになにかに賛成する。例えば、私は性的エネルギーの規律には賛成するが、それの抑圧には賛成しない。そのエネルギーは創造的な方向へと動くことを許されねばならない。それは抑圧されるべきではない。抑圧されたら、それは倒錯的なものになる。あなたは自然以下になる。

 表現とは、あなたは自然以上にならなければいけないということだ。自然以上になれないのなら、倒錯的になるよりは、自然でいたほうがいい。世界中に存在したすべての文化は倒錯した文化だ。

 仏陀やイエスの誕生がめったに起こらないのはそのためだ。そうでなかったら、仏陀とイエスが当たり前になっていただろう。彼らはこれほど例外的ではなかっただろう。すべての社会が抑圧的というより創造的だったなら、仏陀でないほうが例外的だっただろう。仏陀であることは自然な、当たり前のことだっただろう。

Osho, The Eternal Quest, Talk #5より抜粋

 

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