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OSHO Times The Other: Myself 計ることのできない質

計ることのできない質

Osho,どうやったらもっとよく愛することができるでしょう?
 
 愛は、それが愛であるというだけで充分だ。もっとよくする必要などはない。愛はそのままで完璧なものだ。いずれにせよ、それをもっと完璧にすることはできない。そういった欲求そのものが、愛とその本質についての誤解があることを示している。完璧な円を描くことができるだろうか? 円というものは完璧なものだ。完璧でないなら、それは円ではない。
 完璧さは円の本質の一部であり、愛の法則についても同じことが言える。あまり愛さないようにすることはできないし、もっと愛するということもできない——それは量的なものではないからだ。それは計ることのできない質だ。
 あなたのこのような質問は、あなたがこれまでに一度も愛を味わったことがなく、自分の愛のなさを「もっとよく愛そう」とすることで隠そうとしていることの表れだと言ってよい。愛を知っている人がこのような質問をたずねたりはしない。
 愛は、生物学的な熱情として理解されるべきではない。それは情欲であって、すべての動物のなかに存在している。それはなにひとつ特別なものではない。それは樹木のなかにさえ存在している。それは自然が子孫を残してゆくための方法だ。それはまったく特別なものではないし、人間に特有なものではない。
 
 だからまず第一に情欲と愛をはっきりと区別しなければならない。情欲とは盲目的な熱情だ。愛は静かな、安らかな、瞑想的なハートのかぐわしい香りだ。愛は生物学や、化学や、ホルモンとはいっさい関係がない。愛はあなたの意識のより高い領域への飛翔だ。それは物質を超え、肉体を超えてゆく。それを超越的なものとして理解したときに、愛はもはや根本的な疑問ではなくなる。
 根本的な疑問は、いかにして肉体を超えるか、いかにして自分の内にある彼方なるもの、計りうるすべてのものを超えたなにかを知るかということだ。計りうるもの、それが「物質(matter)」という言葉の意味だ。それは計量を意味するサンスクリット語の語源、「マトラ(matra)」から来ている。物質とは計りうるものだ。フランス語の「メートル(metre)」もまた同じ語源から来ている。
 根本的な疑問とは、いかにして計りうるものを去って、いかにして計りえないもののなかへと入ってゆくかということだ。言い方を換えれば、いかにして物質を超えて、もっと意識に目を開いてゆくかということだ。意識に限界はなく、意識的になればなるほど、なおいっそうあなたは先にさらなる可能性が待ち受けていることに気がつくようになる。ひとつの頂に到着すると、目の前にはもうひとつの頂が開けてくる。それは終わりのない巡礼の旅だ。
 
 愛は高まってゆく意識の副産物だ。それはちょうど花の香りのようだ。いくら根を捜しても、香りはそこにはない。生物学的なものは根であり、意識があなたの開花だ。
 意識のハスの花がもっともっと大きく開いてゆくにつれて、あなたは愛としか呼びようのない途轍もない経験に驚くことだろう。あぜんとして立ち尽くすだろう。あなたは喜びにあふれ、至福に満たされて、全存在が歓喜に踊っている。たっぷりと雨を降り注がせようとしている雨雲のようなものだ。至福に満ちあふれるようになるや、あなたのなかにはそれを分かち合いたいという、途轍もないあこがれが起こってくる。
 その分かち合いが愛だ。
 愛はまだ至福に至っていない人から得られるものではない。全世界が惨めなのはそのためだ。誰もが愛を求めて、愛するふりをしている。意識というものを知らないのだから、あなたは愛することができない。あなたはサティアムを、シヴァムを、スンドラムを知らない。
 あなたは真理を知らないし、聖なるものの体験を知らないし、美のかぐわしい香りを知らない。いったいなにを与えることができるだろう? あまりにも空っぽで、あまりにも浅い……あなたの存在のなかにはなにひとつ育っていないし、緑に色づいているものはなにもない。あなたのなかには多くの花々がある。あなたの春はまだやって来ていない。
 愛は副産物だ……春が訪れるや、あなたは開花して、花を咲かせて、もともと自分のものだったかぐわしい香りを解き放つようになる。その香りを分かち合うこと、恵みを分かち合うこと、美しさを分かち合うことが愛だ。
 それはもっとよくしなければならないことではない。それはすでに完璧だ。それはいつでも完璧なのだ。そこにあるのだとしたら、それは完璧なものだし、完璧ではないのだとしたら、それはそこにはないということだ。完璧さと愛を分けることはできない。
 もしあなたが「愛とはなんですか?」とたずねていたのなら、そのほうがもっと正直だったし、純粋だったし、誠実だったし、真摯だったのだが……。しかし、あなたは「どうやったらもっとよく愛することができるでしょう?」とたずねている。あなたはすでに最初から自分が愛を知っているのだと決めつけてしまっている。それだけではなくて、あなたの質問は、自分はすでに愛しているのだと暗に言おうとしている。そしてそれをどうやってもっとよくするかとたずねている。
 私はあなたを傷つけたくはないが、ほかにどうすることもできない。あなたに正直に真実を言うしかない。あなたはほんとうの愛を知らない。自分の意識のなかに深く入ったことがないのだから、知ることなどできない。あなたは自分自身を体験していない。あなたは自分のことをなにひとつ知らない。この盲目のなかでは、この無知のなかでは、この無意識のなかでは、愛は育たない。あなたは砂漠のなかに暮らしている。この暗闇のなかでは、この砂漠のなかでは、愛が花を咲かすことはできない。
 
 まずあなたは光に満ちるようになり、喜びに満たされるようにならなくてはいけない。あまりに満たされて溢れだすほどに。その横溢(おういつ)するエネルギーが愛だ。そうなったら愛はこの世でいちばん完璧なものだということがわかる。それはけっしてそれ以上のものでも、それ以下のものでもない。
 だが、私たちの生い立ちはあまりにも神経症的で、心理学的に病んでいるので、それが内なる成長のすべての可能性を打ち壊してしまう。あなたがたは子どものころから完璧主義者になるようにしつけられてきたので、ありとあらゆることに、愛にまでもその完璧主義の考え方を当てはめてしまう。
 完璧主義者とは、自分でも大いなる苦しみを味わって、他人にさらに大きな苦しみを与える人だ。
 そうなったら世界は惨めになるしかない。
 誰もが完璧になろうとしている。誰かが完璧になろうとすると、彼はほかの全員にまで完璧さを求めるようになる。彼はあらゆる人を非難するようになる。彼は人びとをさげすむようになる。それが世にいう聖者たちが大昔からやってきたことだ。それが宗教があなたがたに対してやってきたことだ。完璧さという考えであなたの存在を汚してしまったのだ。
 完璧になることなどできないので、あなたは罪の意識を感じ、自分を大切にしないようになる。自分の大切さを忘れてしまった人間は、人としてのすべての尊厳を失ってしまう。完璧さといった美しい言葉によって、あなたの誇りはだいなしにされ、あなたの人間性は叩きつぶされてしまった。
 そう、人間にも経験できるなにかがあるが、それは通常の人間という概念を超えている。いくらかは聖なるものをも体験しないかぎり、人は完璧さというものを知ることはできない。
 完璧さは訓練によって得られるものではない。それは練習して実現できるものではない。それはリハーサルを積めばいいというものではない。だが、それこそあらゆる人びとが教えられたことであり、その結果として、世界には偽善者たちが満ちあふれている。自分の内側にはなにもないし空っぽであることは知ってはいるが、彼らはありとあらゆるただの言葉にすぎない美質によって自分自身を装おうとしている。
 誰かに「愛しているよ」と言うとき、あなたは自分がなにを言っているかわかっているのだろうか。ただの異性間の生物学的な熱情にすぎないのではなかろうか。そうだとしたら、いったん自分の動物的な欲望を満たしてしまえば、その「愛」のようなものなどいっぺんに消え失せてしまうだろう。それはたんに飢えだったのであり、あなたは自分の飢えを満たしてしまったから、あとはもう用がないというわけだ。さっきまでは世界でいちばん美しい女性だと見えていたのに、さっきまではアレクサンダー大王のようだったのに、あなたはどうやってこいつから逃げだそうかと知恵を絞りはじめる。
 これから読む、パディが恋人のモーリーンに宛てた手紙は、あなたに大いなる光明をもたらしてくれることだろう——
 
 愛するモーリーンへ
 昨日の夜は会ったけど、君は現れなかったね。君が現れようと現れまいと、今度もまた会おうね。僕が先に着いたら、君にわかるように門柱に僕の名前を書いとくよ。君が先に着いたら、ほかの人に気づかれないように、僕の名前は消しとくんだよ。
 愛するモーリーン、僕は君のためだったらいちばん高い山にも登るし、広い広い海を泳いで渡ってもいい。君のそばにいられるんだったら、どんな苦しみにでも耐えるつもりだ。
 永遠に君の恋人、パディより。
 追伸——金曜の夜に雨が降らなかったら、ぜひとも君に会いに行くつもりです。
 
 誰かに「愛しているわ」と言うとき、あなたは自分がなにを言っているのかわかっていない。「愛」という美しい言葉の後ろに欲望が隠れていることに気がついていない。
 それは消えてなくなってしまう。ほんのつかの間のものでしかない。
 愛は永遠のものだ。それは世界中に満ちあふれている無意識な人びとではなくて、覚者たちの体験なのだ。ほんとうの愛を知ったのはごく少数の人たちだった。この人たちこそもっとも目覚めている、もっとも光明に満ちた、人間意識の最高の頂だ。
 ほんとうに愛について知りたいのだったら、愛のことは忘れて、瞑想を思いだしなさい。庭にバラの花を咲かせたかったら、バラの花のことは忘れて、バラの繁みの世話をするがいい。それに肥料をやって、水遣りをして、適量の日光や水が得られるように世話をしてやりなさい。
 すべての面倒を見てやったなら、時期が来ればおのずと花は咲くだろう。それを早めに咲かせることはできないし、さっさと花びらを開かせることはできないし、バラの花にもっと完璧になってくれと頼むこともできない。
 完璧でないバラの花を見たことがあるだろうか? それ以上のなにを望むのか? バラの花はひとつひとつがユニークであり、そして完璧だ。風のなかで、雨のなかで、陽光のなかで踊っている……あなたには、その素晴らしい美しさ、この上もない歓びが見えないのだろうか? 小さなバラの花が存在の秘められた輝きを放っている。
 愛はあなたの存在のなかに咲くバラの花だ。だが、自らの存在の下地を整えなさい。暗闇と無意識を追い払いなさい。もっともっと敏感で目覚めるようになれば、愛はひとりでに、正しいときに訪れるだろう。あなたがそのことを心配しなくてもよい。訪れたときには、それはつねに完璧なのだ。
 
 愛は霊的な体験だ。セックスとはなんのかかわりもなく、肉体ともなんのかかわりもなく、ただもっとも奥深い存在とだけかかわっている。
 だが、あなたは自らの寺院に入ったことさえない。自分のことすら知らないのに、愛のことをたずねている。まず、自分自身でありなさい。まず、自分自身を知りなさい。そうすれば、愛はその報いとしてやって来る。それは彼方なるものからの報いだ。それは花々のようにあなたの上に降り注いで……あなたの存在を満たす。それはあなたの上に降り注ぎつづけ、それと共に分かち合いたいというこの上もない望みが起こってくる。
 人間の言葉ではその分かち合いを「愛」と呼ぶしかない。言葉にはほとんど意味がないが、それは正しい方向を指し示している。愛は敏感さの、意識の影だ。
 私はあなたにもっと意識的になることを教える。そして愛はあなたがもっと意識的になればやって来る。やって来るのは客人であり、迎え入れる準備ができている者のところには必ずやって来る。あなたは準備どころか、それが存在することすら知らない……。
 愛が戸口にやって来ても、あなたにはそれがわからないだろう。愛が扉をノックしても、あなたはありとあらゆる口実を見つけだすだろう。たぶん強い風が吹いたのだとか、なにかそういった口実を考えるだろう。あなたは扉を開けない。たとえ扉を開けたにしても、これまでに愛を一度も見たことがないのだから、あなたはそれが愛だと知ることができない。どうしてわかるだろう?
 自分が知っているものしかわからない。愛が初めて訪れて、あなたの存在を満たしたとき、あなたは完全に圧倒されて、なにがなんだかわからなくなる。起こっていることを理解することができない。ハートが踊っていることはわかるし、天上の音楽に包まれていることはわかるし、これまでに一度もかいだことのないようなかぐわしい匂いを感じる。だが、こういったすべての体験をまとめて、たぶんこれが愛なのだと気づくまでには少し時間がかかる。それはゆっくりとあなたの存在のなかにしみ込んでゆく。
 愛を、詩や歌のなかに見つけることはできない。私自身の経験では、愛について詩を書く人たちはほんとうは愛についてなにも知らない。私は個人的に愛について美しい詩を書いた偉大な詩人たちと知り合いだったが、彼らが愛を体験していなかったことは確かだ。じつのところ、彼らの詩は代用品、慰めにすぎない。愛について詩を書くことで、彼らは自分と他人をだましているのだ——「私たちは愛を知っている」と。
 神秘家だけが愛を知っている。神秘家を除けば、人間のほかのカテゴリーのなかで愛を体験した人たちはいない。愛はすっかり神秘家たちがひとり占めにしている。愛について知りたかったら、あなたは神秘家の世界に足を踏み入れなければならない。
 
 イエスは「神は愛だ」と言っている。彼は古代の神秘主義者の一派の、エッセネ派の一員だった。だが、たぶん彼はそこでの修行を最後までやらなかったのだろう。なぜなら、彼の言っていることは完全に間違っているからだ。神は愛ではなくて、愛が神だ——その違いは大きい。それはたんに言葉の違いではない。
 神は愛だと言うとき、あなたは愛は神の属性のひとつにすぎないのだと言っている。神は知恵でもあるし、慈しみでもあるし、許しでもある。神は愛だけではなくてほかの無数のものでもありうる。愛は神の属性のひとつにすぎない。それだけではなくて、愛は神の小さな属性のひとつにすぎないと言うことでさえ、きわめて不合理で非論理的なことだ。なぜなら、神が愛なら、彼は人を裁くことなどできないからだ。神が愛なら、彼は罪人たちを永遠の地獄に投げ込むような残酷なまねはできない。神が愛なら、彼は厳格な掟を押しつけることはできない。
 
 スーフィーの神秘家のひとり、オマール・ハイヤームはイエスよりももっと深い理解を示している。彼はこう言っている——「私はただ自分自身でありたい。僧侶や説教師の言うことなど聞きたくはない。なぜなら、神の愛は充分に大きいと信じているからだ。神の愛よりも大きな罪など犯すことはできない。だったら、なにを心配するのか?——私たちの手は小さいし、私たちの罪も小さいのだ。私たちに大したことはできない。神の愛をもってしても許すことができないほどの罪を犯すことができるだろうか? 神が愛であるなら、彼は最後の審判の日に、聖者たちを選り出して、残った何百万もの人たちを永遠の地獄に投げ込むなどということはけっしてできない」
 エッセネ派の教えはまったく反対だった。イエスは彼らを間違って引用している。たぶん彼は、彼らの教えにあまり深くは根ざしていなかったのだろう。彼らの教えは「愛は神なり」だった。それはずいぶんと大きな違いだ。いまや神は愛の属性のひとつにすぎないものになり、いまや神は愛のこの上もない体験のひとつの質になっている。いまや神はひとりの人物ではなくて、愛を知った人たちの体験にすぎない。いまや神は愛に従属したものになっている。そして私はあなたがたに言いたい——エッセネ派は正しかったのだ、と。
 愛は究極の価値、最終的な開花だ。
 それを超えるものはなにもない。
 だから、それを完璧なものにすることはできない。
 実のところ、それに到達する前にあなたは消え失せなければならない。愛が存在するようになれば、あなたはそこにはいない。
 東洋の偉大な神秘家、カビールはあるとても意義深いことを言っている——体験をした人、理解に達した人、究極のリアリティの内なる聖所に入った人にしか言えないようなことを。それはこうだ——「私は長らく真理を探し求めてきたが、不思議なことに、探し求める者がいるあいだは真理を見つけることができなかった。真理が見つかったとき、あたりを見回してみると……私がいなかった。真理が見つかったとき、探求者はもはやいなかった。探求者がいたときには、真理はどこにもなかった」
 真理と探求者はいっしょに存在することができない。
 あなたと愛はいっしょに存在することができない。
 共存することはできない——自分か愛のどちらかを、あなたは選ばなければならない。あなたが消え去って、溶けてなくなり、そのあとには意識しか残らなくなったら、愛が花開くだろう。あなたはいないのだから、それを完璧なものにすることはできない。最初から完璧なものにする必要はない。それはつねに完璧なものとしてやって来る。しかし、「愛」は誰でも使うが誰も理解していない言葉のひとつだ。両親は子どもたちに「おまえを愛しているんだよ」と告げるが、彼らこそ子どもをだめにしてしまう人たちだ。彼らこそ子どもたちにありとあらゆる先入観を、ありとあらゆる死んだ過去の迷信を植えつける人たちだ。彼らこそ何世代にもわたって受け継がれてきた、世代から世代へと伝えられてきた、ありとあらゆるガラクタの重荷を子どもの背に押しつける人たちだ。狂気はつづく……それは山のようになってくる。
 なのに親たちはみな自分は子どもを愛しているのだと考える。子どもをほんとうに愛しているのなら、子どもたちが自分に似てほしいなどとは思わないだろう。自分自身が惨めそのものなのに。彼らは人生でなにを経験しているだろうか? ただ惨めさと、苦しみだけ……人生は彼らにとって祝福ではなくて、呪いだった。なのに子どもたちが自分に似ることを望んでいる。
 ある家に泊まったことがある。夕方に、彼らの家の庭に坐っていた。夕陽が沈もうとしていた。美しい、穏やかな日暮れだった。小鳥たちは樹々へと戻り、その家の小さな子どもが私のかたわらに坐っていた。私は彼にたずねた、「君は自分のことをどう思うかね?」
 子どもというものは大人たちよりももっと純粋で、知覚力が鋭いものだ。大人たちはすでにさまざまな主義主張や宗教によって汚染され、腐敗して、だめになってしまっている。その幼い子どもは私の方を向いて言った、「ずいぶん難しいこと訊くんだね」
 私は言った、「どこが難しいんだい?」
 彼は言った、「難しいのは、ぼくがひとりっ子だからさ。だからいつもお客さんが来るたびに、ある人はぼくの目はお父さんに似ているって言うし、ある人はぼくの鼻はお母さんに似ているって言うし、ある人はぼくの顔は叔父さんに似ているって言うし、しまいには自分が誰なのかわけがわからなくなっちゃうんだよ。だって、どこかがぼくに似てるなんて言う人はひとりもいないからね」
 私は言った、「それはほんとうに難しいなあ」
 だが、これこそあらゆる子どもたちになされてきたことだ。あなたがたは子どもがほんとうの自分を体験するのを許さないし、子どもが自分自身になるのを許さない。自分が果たせなかった野望を子どもに担わせようとしているにすぎない。
 私の主治医はアムリト医師だ。彼の父親もまた、よく知られた医師だった。彼は奇妙な条件つきの遺言状を残した。アムリトはその条件を満たさないと遺産を受け取れないというのだ。その条件とは、英国王立医学会の会員に迎えられて初めて、彼は銀行から金を受け取ることができるというものだった。会員になれなかったら、世界でいちばん権威ある医学会とみなされている、英国王立医学会に迎えられなかったら……。
 その話を聞いたとき、私はこの気の毒な父親の果たしえなかった野望を想像することができた。彼は一生この王立学会の会員になることを望んでいたのだろう。いまや彼は自分の野望という重荷を息子に押しつけようとしている。自分が死んでしまった後も、その野望を果たそうとしているのだ。もしその条件を満たせなかったら、息子は路上の乞食になってしまい、父親の生涯の稼ぎを受け継ぐことができない。ひとり息子なのに……銀行には金が預けられていても、彼はそれを手に入れることができない。
 幸運にも彼はそれを果たし、それも父親が望んでいた以上のことをやってのけた。彼は最年少で英国王立医学会に迎えられ、それは英国王立医学会が始まって以来のことだった。たいていの人は年を取って、経験を積んで、多くの本や論文を書いて、さまざまな研究をして、多くの貢献を果たして、初めて迎え入れられる。彼はあらゆることをごく若いうちにやってしまった。彼は英国王立医学会の最年少の会員になった。
 
 両親はみな子どもが自分に似てくれることを望んでいる。しかし、子どもには子どもの運命がある。あなたとそっくりになってしまったら、彼はけっして自分自身になることができない。自分自身になれなかったら、あなたはけっして満足することはできないし、この世界のなかにあってくつろぐことはできない。つねになにかが欠けているという感じがするだろう。
 両親はあなたに言う——私たちはおまえを愛しているし、それに私たちはおまえのお父さんでありお母さんなのだから、おまえも私たちのことを愛さなければいけないよ、と。これは実におかしなことだが、誰もそのことには気づいていないようだ。ただたんに母親であるからといって、子どもはあなたのことを愛さなければいけないわけではない。あなたは愛されるに値する人間にならなくてはいけない。ただ母親であるというだけでは充分ではない。あなたは父親であるかもしれないが、だからといって自動的に愛されるべき人間になってしまうわけではない。ただたんに父親であるということが、子どものなかに途轍もない愛の感覚をつくりだすということはない。
 だが、それが期待されている……そして気の毒にも子どもはどうしたらいいのかわからない。彼はそのふりをしはじめる。ほかにどうすることもできない。こころのなかには微笑みなどないのに微笑むようになる。彼は愛、敬意、感謝を示すようになるが、そういったものはみんな偽りだ。彼は役者に、ごく幼いころから偽善者に、政治家になってしまう。私たちはみんなこういった世界に住んでいる。そこでは両親が、教師たちが、聖職者たちが、あらゆる人間があなたを堕落させ、あなたの代わりになり、あなたからあなた自身を奪い去ってゆく。
 私がここでやっているのは、いいかな、あなたの中心をあなた自身に返すことだ。私はこの中心に据わることを「瞑想」と呼んでいる。私はあなたが大いなる自尊心と共に、自分は存在に必要とされているということを知っているその尊厳と共に、ただ自分自身であることを望んでいる。そうなったら、あなたは自分自身を探しはじめることができる。まず中心に入って、それからほんとうの自分を探しはじめなさい。
 自分の本来の顔を知ることが、愛の生の、祝福の生の始まりだ。それは尽きることがないから、あなたはあり余るほどの愛を与えることができる。それは計ることができないもの、尽きることがないものだからだ。与えれば与えるほど、さらにもっと多くを与えることができるようになる。
 どのような条件もなしに、たんに「ありがとう」と言われることさえ期待しないで与えるとき、生におけるもっとも素晴らしい体験が訪れる。ほんとうの、真正な愛は期待をするどころか、自分の愛を受け取ってくれた人に感謝を感じる。拒むこともできたからだ。
 深い感謝の気持ちと共に、それを受け取ってくれるすべての人たちに愛を与えるようになったとき、あなたは自分が皇帝のようになっていることに気づいて驚くだろう。物乞いの鉢をもって歩きまわり、家々の扉を叩いて、愛をせがんでいる乞食ではない。扉を叩かれた家の人たちも愛を与えることはできない。彼ら自身も乞食だからだ。
 聞いた話だが、ふたりの偉大な占星術師がいた。
 彼らは毎朝ある四つ角で出会った。そこから道が別の方向に分かれていたからだ。彼らは街の別々の場所で仕事をしていた。だが、街のそれぞれの場所に出かけてゆく前に、その四つ角で出会うことが、ほとんど毎日の儀式のようになっていた。彼らはお互いに手のひらを見せあっては、「今日の運勢はどうだね?」とたずねあうのだった。
 彼らは偉大な占星術師だった。彼らは人びとの運勢を占っていたが、自分の運勢は見ることができなかった。そのためには別の占星術師に見てもらわねばならなかった、さっきまで他人の運勢を占っていたというのに! 彼らはお互いの手相を見ては予想を言いあったものだ。
 乞食たちはお互いに愛を求めあい、それで愛を得ることができないので、失望し、怒りを感じる。だが、最初からそうなることは決まっている。愛は乞食たちではなく、皇帝たちの世界に属している。そして人は愛に満ちるようになり、それをいかなる条件もなしに与えることができるようになったとき、初めて皇帝になる。
 そこでさらにもっと大きな驚きが訪れる。愛を誰にでも、見知らぬ者にでも与えるようになったとき、誰に与えているかは問題ではなくなる。与えることそのものが途轍もない喜びになったとき、受け取る人が誰であるかなど、誰が気にするだろうか? この空間があなたの存在のなかに生まれてきたとき、あなたはどんな人にでも与えるようになる。人間ばかりか、動物たちや、樹々や、遠くの星々にまでも。なぜなら、愛は、愛情のこもったまなざしで見つめるだけで、遠くの星々にまでも伝えられるものだからだ。あなたが触るだけで、愛は樹木にも伝えられる。ひと言も言わなくても……それは完全な沈黙のなかでも伝わってゆく。
 私はたんに口先でこれを言っているのではない。私は自分が言っているすべてのことの生きた実例だ。私は一度もそれを言ったことはないけれど、私の愛を感じることはできないだろうか? あえて言わなくても、それが自らを物語っている。それはそれ自身の道すじを通って深みに、あなたの存在のなかに入ってゆく。
 
 まず愛に満ちるようになりなさい。そうすれば分かち合いが起こる。そこで驚くような経験をするだろう……与えたなら、あなたは未知の源泉から、知らない隅々から、見知らぬ人びとから、樹々から、川から、山々からも受け取るようになる。存在のありとあらゆる片隅から、愛があなたに押し寄せてくる。与えれば与えるほど得ることができる。生は愛のダンスにほかならないものになる。
 私にとっては、これが光明、純粋な愛の状態だ。純粋な愛なしには、神というものもありえない。
 
Satyam, Shivam, Sundramより抜粋