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OSHO Times The Other: Myself 愛は宗教的な現象だ

愛は宗教的な現象だ

 Osho,あなたの愛のメッセージをほんとうに理解している人はいるのでしょうか。私がそれを理解していないということが、このごろ痛みとともにはっきりしてきました。愛について少々ちがいはあっても、私たちは、みな同じ古い歌を歌っているのではないのだろうか、と思うことがあります。
 なぜ単純に自然に生きることが、こうもむずかしいのでしょう?

 なぜなら、それはとても単純で自然だからだ。だからむずかしい。あなたは単純ではないし、自然でもない。
 そして愛は単純で自然だ。
 私の愛のメッセージはまったく単純だ。これより単純なものはない。しかしあなたのマインドはとても複雑で、とても扱いにくい。マインドは単純なものを複雑にしてしまう。これがマインドの仕事だ。何世紀もの間、マインドはただひとつのことを訓練されてきた——。それはものごとを複雑にして、あなたが生きることを不可能にする、ということだ。
 マインドはあなたを破壊することの熟練者だ。なぜなら、生は単純なものごとからなっているから。存在全体が単純だ。ところが人のマインドはあまりにも啓蒙され、条件づけられ、教育され、計画されてしまった。それでもっとも単純なことでもゆがんだものになってしまっている。マインドへと到達した瞬間、それはもはや単純なものではなくなってしまっている。マインドは解釈しはじめる……そこにないものを探し、そこにあるものを無視して。

 あなたは私が語ってきていることはなんでも、聴いてきたと思っているのかね? そんなことはない。私はひとつのことを語ってきた。それなのにあなたはほかの何かを聴いてきている。あなたが聴くことは直接的ではないからだ。そこには仲介、たくさんのあなたのマインドがある。マインドは検閲のようにさまざまな方法で機能する。マインドはたくさんのものがあなたの内側に入ることを許さない。どれだけマインドが妨げているかを知ると、あなたは驚くだろう——98パーセントだ。語られているたった2パーセントだけがあなたの内側に入ることを許されている。しかもこの2パーセントも純粋に入ってくるわけではない。まずマインド自体の解釈によってその2パーセントを汚染してしまうのだ。あなた自身が持つ過去の経験によって、条件づけによって汚染してしまうのだ。そしてマインドが理解したことを感じるようになるまでに、すでに語られ聴かされたことはまったく反対のことになってしまっている。

 ゴータマ・ブッダは物語を語ったものだった……すべての偉大な師(マスター)が物語にたよっていたのは不思議なことだ。それには理由がある。物語のなかの問題であれば、マインドがくつろげるからだ。それがただのジョークであれば、マインドがくつろげるからだ。張りつめたり深刻である必要がない。ただあなたに語られていることが、くつろぎとなりえる。
 ところが愛や自由、沈黙のようなことについて話されていると、あなたは緊張する。だからマスターは、単純な物語を用いなければならない。たぶん、物語の終わりまではうまくいくだろう。そうすればあなたがまだくつろいでいる間に、小さなメッセージがマインドの後の扉から入り込むだろう。 ゴータマ・ブッダはこう言っていた——それは彼の夜の講話のあとの習慣だった——彼は弟子たちに言った。「さあ、行ってあなたたちが眠る前に、最後のことをしなさい」その最後のこととは瞑想だった。

 ある日、聴衆者のなかで売春婦と盗人が話を聴いていたときのことだった。「さあ眠る前に最後のことをする時間だ」と仏陀が言ったとき、すべてのサニヤシンは瞑想へとむかった。盗人はただたんに目を覚ました。——「俺はいったいここで何をしてるんだ?」彼の仕事の時間だったのだ。売春婦はあたりを見渡した。そして仏陀はほんとうにとても鋭い人だと感じた。それを言ったとき、仏陀が彼女を見ていたからだ。彼女は感謝して頭をたれた。「眠る前に仕事に行きなさい」ということを思い出したからだ。
 単純に言ったことだった。しかし3つのタイプの人が3種類の意味にとってしまったのだ。実際にはもっと多くの意味があったのだろう。ある人にとっては瞑想が喜びだったのだろうし、ほかのある人にとっては瞑想は、やらねばならないことだったのだろう。そうなると意味がちがってくる。すべての瞑想者にとって仏陀のメッセージは同じだった。しかし彼らが聴いたことは、同じになりえなかった。 

 この生涯でずっと私は、何か複雑なことを教えたことはない。人生はすでにあまりに複雑だから。私はあなたたちにこれ以上の重荷を背負わせたくない。だが今世紀において、私はたぶんほかの誰よりも誤解されてきただろう。ただたんに私が誰も言わない単純なことを話しているということから。私はみんなが忘れてしまっている簡単なこと、あたり前と思われてきたことを話している。誰も話さないことについてだ……。 

 私は宗教を教えるある教授を知っていた。数日間彼の講議を聴いたあと、私は立ち上がり彼に言った。「あなたは見当ちがいのことについて話していると思うのですが。神が問題でここにいるという学生はひとりもいないと思います。あなたにとっても神は問題ではないでしょう」——私はちょうど彼の家の前に住んでいたことがあり、彼の妻君が彼にとっての問題だったからだ。
 「あなたのおくさんがほんとうの問題でしょう。それなら、あなたは論議できる。神はまったく抽象的なものです。私は1度もあなたが家で神について考えているところをみたことがありません。あなたが神について教えていることはすべて、あなたの経験ではありません。あなたの探索でもありません。あなたは無垢な人のマインドに役に立たない考えを詰め込んでいます。愛について話してください」
 彼はとても怒り言った。「私といっしょに校長のところに来なさい」
 「私は神のところでさえ行けますよ。あなたには私を脅すことはできません」
 校長の部屋に行く途中、彼はたずねた。「怖くないのかね?」
 「なぜ私が怖がらなければならないのですか? あなたが恐怖を感じるべきだ。私はすべての生徒を知っています。彼らの問題は愛です。あなたの問題もまた愛です。だから私は、校長に話すつもりです。もし校長が私を信じないなら、あなたのおくさんを呼ぶようにと。そうすれば校長は、私が意味する問題がなんであるのかわかるでしょう」
 教授は言った。「きみはことをあまりにもややこしくしている」
 私は答えた。「私はまったく単純に、ありのままにしているのです。私は、全生徒を校長の部屋に連れていけます。彼らはみな、愛の問題をかかえています。誰かは女の子を追いかけても彼女を手に入れられない——これが彼の問題。誰かは彼女を手に入れた——これが彼の問題。
 教授は「君は戻ったほうがよろしい。もう行く必要はない」と言った。
 私は「どこへも戻りません。あなたが行かないなら、私がひとりで行きます」と答えた。
 「私が必要ないと言っているのに……」
 「あなたには必要ないのでしょう。だが私には必要です。私は決心しなくてはなりません。なぜなら、私にとって愛は宗教的な現象だからです。ところが神はそうではありません。神はただの仮説です。神にはなんの意味もありません。なぜなら、神に相応するものは存在しないからです。
 「愛は宗教的な現象です。もし愛をトータルに理解できなければ、本来は生を神聖にしてくれるものによって、人は惨めになってしまうでしょう。理解がないと、天国となりうるものが、地獄となってしまうのです。愛はまちがいなく芸術です。誰が神のことなんて気にかけるのです? だから意味のあることを話し始めてください。私たちは宗教を理解するためにやってきたのです? ばかげたことではなく」
 「しかし」と彼は言った。「すべての授業には、愛や自由、個性や沈黙についての記載はない……私たちは授業を終えなければならない」 
 大学ではそれらの授業を満たしているだけだ。真の人生、真の問題について思い悩むことから逃れて。

 私はただ単純なことを話しているので、多くの人びとが私の話は宗教の本来の姿ではないと感じている。彼らは宗教についての観念を持っている。複雑で抽象的な仮説をもっている。人はそれらについて考えつづけられる。しかし生にはなんのちがいもつくりださない——人は同じままだ。ヒンドゥ教徒であろうが回教徒であろうがキリスト教徒であろうが変わりはない。問題は同じだ。あなたたちの実在しない問題は異なり、さまざまだ。それらはなんでもないことだ。マインドの重荷にすぎない。

 もしもあなたがマインドとその複雑なしくみを脇に置くことができれば、私を理解することは可能だ。マインドは必要ない。なぜなら、私のワークはハートからハートへのものだからだ。
 私はハートから語っている。
 私は理論家ではない。マインドから語っているのでもない。私はハートをあなたへと注いでいる。だがもしあなたがマインドで聴こうとすると、あなたは逃してしまうだろう。もしも新しい扉があなたの存在へと開く用意があなたにできていれば、ハートから聴く用意ができていれば、私が語っていることはなんであれとても単純になり、それを信じる必要はない。なぜなら、信じようがないからだ。それはあまりにも単純で疑いの余地はない。
 私は信じることに反対している。それは私の教えはすべて、信じることを必要としないからだ。私は疑念を持つことに賛成だ。なぜなら、私の単純な教えにあなたは疑うことができないからだ。世界中のすべての宗教が信じることを強いる。彼らが教えていることが疑われるからだ。彼らは疑うことに反対している。疑うことによって彼らのすべての組織が破壊されてしまうからだ。

 私は単純で真実だ。私は形而上的ではない。だから私を信じることは必要ない。もしあなたが私を聴いていれば、信頼が起こるはずだ。それは信じることではない。信頼より愛に近い。疑おうとしてもできないものだ。あなたが疑うことができないとき、そこには真の信頼がある。疑う余地のない信頼だ。それはあなたの内側に在ってはじめて変容する。
 人類のすべての歴史のなかで、マハヴィーラだけが記憶しておくべき区別をつけた——これは重要だ。彼は、真実に到達するにはふたつの方法があると言っていた。ひとつはシュラバカだ。シュラバカとは聴くこと、ハートから聴くことを意味する。ハートから聴くとき、あなたは何もする必要はない。ただ聴いているだけで十分だ。あなたは変容するだろう。もうひとつは修道士の道だ。それは真実に到達するために、きびしさを選ばなければならない。
 私の努力は修道士をつくることではない。だから語ることを選んだ。なぜなら、ただ聴くことであなたは生まれ変われるからだ。あなたにはほかのことは必要ない。ただ、ハートの扉を喜んで開いていればいい。ただ私をあなたの内側に入れてごらん。そうすればあなたはもう同じあなたではないだろう……。