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OSHO Times 関係性について 愛はすべての人を非凡な存在にしてしまう

 愛は方法ではない。これがほかのすべてのテクニックと、バクティの道、献身の道とのちがいだ。献身の道に方法はない。ヨガには方法がある。バクティにはない。愛は方法ではない。これを方法と名づけるのはまちがっている。愛は自然に発生するものだ。愛はすでにあなたのハートのなかに存在している。それはあふれ出ようとしている。たったひとつ必要なのは、ハートのなかにある愛をそのまま認めることだ。あなたはあらゆるたぐいの邪魔や妨害を創り出している。あなたはそれをそのまま認められない。それはすでに存在している。あなたがほんのちょっとリラックスすればいい。そうすれば、愛はやって来る。それはあふれ、花開く。

 愛がひとりの平凡な人に向けて花咲くとき、その平凡な人は非凡な存在となる。愛はすべての人を非凡な存在にしてしまう。これはひとつの錬金術だ。ひとりの平凡な女性は、あなたが愛すると、突然変容してしまう。彼女はもはや平凡ではなくなる。彼女はこの世に存在するもっとも非凡な女性だ。これはほかの人たちが言うように、あなたが恋で盲目になったからではない。実際、あなたはすべての平凡さのなかに隠されている「非凡」を見ている。愛はたったひとつの目、たったひとつの見る力だ。たったひとつの確かさだ。あなたはひとりの平凡な女性のなかに、女性のすべてを、その過去、現在、未来を、あらゆる女性を合わせたものを見てしまっている。あなたがひとりの女性を愛しているとき、あなたは彼女のなかに『女性なる魂』を見てとるだろう。突然彼女は非凡になってしまう。愛はすべての人を非凡なものにしてしまう。

 あなたが自分の愛のなかへと深く入っていくと、恐怖がわきおこる。震えがあなたをつかんでしまう。——それは、愛に深く入っていけば困難があるからだ。深く入れば自分を失ってしまう。それで愛の深みを避け始める。愛の深みはちょうど死のようなものだから。あなたは自分と愛する人との間に壁を創ってしまう。なぜなら女性は底なしの穴のような存在なので。それに彼女はあなたを吸いつくしてしまうだろうから。あなたは女性から逃げてしまう。彼女に吸いつくされてしまうかもしれない。それで恐怖がある。女性は子宮だ。底なしの穴だ。女性はあなたに生命を与えられる。それなら死はどうだろう。実際、生命を与えられるものだけが、死をも与えられる。だから恐怖が在る。女性は危険だ。とても神秘的だ。あなたは女性なしでは生きていけない。けれども女性と一緒にも生きていけない。あなたは女性からそれほど離れることはできない。なぜなら、離れれば離れるほど、突然あなたは平凡になってしまうから。しかし、そんなに近寄ることもできない。近づけば近づくほど、あなたが消えてしまうから。

 あらゆる恋愛にはこういった衝突がある。それで妥協が必要となる……。そんなに遠くに離れることはできないし、近寄ることもできない。どこか中途で、自分のバランスを保ちながらたたずんでしまう。しかしそうなると、愛は深く進むことができない。愛の深みに到達できるのは、恐怖をすべて落とし、後先なしにジャンプするときだけだ。ここには危険がある。危険が在るのは確かだ。——愛はあなたのエゴを殺すのだから。愛はエゴにとっては毒物だ。愛はあなたにとっては『生』だ。けれどもエゴにとっては『死』だ。人にはジャンプが必要だ。もし相手に対する親しみを増し、相手にどんどん近づいていき、女性の実存に溶けていくならば、彼女はただ非凡な存在となるだけではない。彼女は『神性なるもの』となるだろう。彼女は永遠への扉となるのだから。ひとりの女性に近づけば近づくほど、あなたは感じるだろう——彼女が超越的なものの扉であることを。

 そして、同じことが女性が男性へと向かうときにも起こる。女性は女性で問題を抱えている。その問題とは、女性が男性に近づけば近づくほど男性が逃げ始めるということだ。女性が近づくほど男性は恐れる。近づけば近づくほど男性は逃げ始める。彼女から離れる千とひとつのいいわけを探して……。だから女性は待たなけばならない。だが待つとまた問題が生じてくる。女性がイニシアチブを取らなくなると、それは一見無関心のようだ。無関心は愛を殺しもする。無関心ほど愛にとって危険なものはない。憎しみでもこれよりましだ。なぜなら、少なくとも憎んでいる人とはある種の関係を持つことができるからだ。愛は憎しみのなかでも生き延びることができる。しかし無関心のなかではだめだ。女性はいつもむずかしい状況にある。女性が自分で進んでなにかをすると男性は逃げ始めてしまう。進んでなにかをする女性に耐えられる男性はいない。これは底なしの穴が自分から近づいてくるようなものだ。手遅れにならないうちにあなたは逃げ出す。

 それでドンファンたちが生みだされたのだ。ひとりの女性からまたもうひとりの女性へと彼らは移動していく。彼らは行きあたりばったりの恋愛ざたに生きている。もしひとりの女性のところに長くいることになれば、底無しの穴が彼らを吸いつくしてしまうからだ。彼らは女性を愛する者のように思われている。彼らは絶え間なく、毎日新しい女性へと動いている。しかし、彼らは深い恐怖のなかにある。なぜなら、もしひとりの女性と長い間いれば、親密さが育まれるものだから……。ドンファンたちが女性ともっと近づいたら、なにが起こるか誰もわからないだろう。それで彼らはほんの一時を女性と過ごす。そして手遅れにならないうちに逃げ出してしまう。

 バイロンは、その短い生涯に何百人もの女性を愛した。彼は典型的なドンファンだった。彼はけっして愛を知ることがなかった。ひとりの女性からもうひとりの女性へ、そしてまた別の女性へと動いているとき、あなたはどうやって愛を知ることができるかね。
 愛は熟することが必要だ。落ち着くための時間が必要だ。愛には親密さが必要だ。深い信頼、誠実さが必要だ。女性はいつも困っている……。「なにをしたらいいのかしら」。女性が率先してことを始めると、男性は逃げ出す。ところが女性が無関心なままだと、やはり男性は逃げ出す。彼女は興味がない、という理由で。それで彼女は中途の立場を選んでしまう。ほんの少し率先的で。ほんの少し無関心で……。ふたつをまぜ合わせてしまう。これはいい状態ではない。なぜなら、こういった妥協はあなたが成長するのを許さないからだ。

 妥協はあなたが成長するのをけっして許さない。妥協は計算高さ、ずる賢さだ。妥協は仕事上のものだ。愛のものではない。愛し合うふたりがほんとうにお互いを恐れず、エゴを落とすことをためらわないとき、彼らはお互いのなかへと飛び込むだろう。そして、深く飛び込めば、ふたりは相手といっしょになってしまう。彼らは実際ひとつになってしまう。このふたりの間の統合が起こるとき、愛は祈りへと変容する。この統合が起こるとき、突然宗教的な質が愛を訪れる。

 初め、愛にはセックスの質がある。愛が浅いと、愛はセックスへと落ちてしまう。実際これは愛ではない。愛がだんだん深くなるにつれて、愛はスピリチュアルな質、神性さを持つようになるだろう。愛はこの世界と彼岸、セックスとサマーディの掛け橋だ。それで、私は「セックスから超意識への旅」と名づけてきた。愛はまさに掛け橋だ。あなたが橋の上を進まなかったら、セックスがあなたの生、生全体になってしまう。それは平凡で醜い。セックスは美しくなりえる。しかしそれは愛とともにあるときだけだ。愛の一部としてのセックスだ。セックスそれ自体だけでは醜い。それはこんなふうだ……。あなたの瞳は美しい。しかしそれを肉体から取り出したら、醜いものになってしまう。もっとも美しい瞳でさえも肉体から切り離されれば醜くなる。

 こんなことがヴァン・ゴッホに起こった。彼は誰にも愛されなかった。彼の肉体はちっぽけで醜いものだったから。あるとき、ひとりの娼婦がちょっと彼を喜ばそうとして、彼の耳を褒め讃えた……。彼の肉体にはほかになにも褒め讃えるものが見つからなかったので。ほんとうになにもなかった。彼の肉体はたいへん醜かった。娼婦はこう言った。「あなたはとても美しい耳をお持ちね」ゴッホは家に帰った。いままで誰も彼の肉体について褒めてくれたことはなかった。誰も自分の肉体を認めてくれなかった。これが初めてだった。ゴッホは興奮してわくわした。それで自分の耳を切り落とした。そして娼婦のところへ戻って、耳をプレゼントした……。いまや耳はまったく醜かった。

 セックスは愛の一部だ。より大きな全体の一部だ。愛はセックスに美しさを与えてくれる。さもなければ、セックスはもっとも醜い行いのひとつだろう。それで人びとは暗闇でセックスへと向かっていく。自分たちでさえもこの夜の営みを見たいとは思っていない。動物たちはみな昼間セックスを行う。人間だけがちがう。夜厄介なことをする動物はいない。夜は安らぎのためにある。動物たちはすべて昼間愛し合う。人間だけが夜愛し合う。愛の営みは少々醜いものだ、という恐れがある。女性はけっして目を開けて愛を交わさない。女性は男性よりも美的感覚を持っているから。女性はポルノには興味がない。興味があるのは男性だけだ。

 それでこんなにもたくさんの女性のヌード写真がある。男性だけが肉体を見ることに関心がある。女性にはない。女性にはもっと美的感覚がある。肉体は動物的だから。もし肉体が神性なものにならなければ、そのなかに見るものはなにもない。愛はセックスに新しい魂を与えてくれる。愛があるとき、セックスはその形を変える。それは美しいものになる。もはやセックスではなくなる。それはなにかセックスを超えたものを持つようになるだろう。掛け橋となるだろう。セックスを満足させてくれるということで、あなたは人を愛することができる。これは愛ではない。取引だ……。愛しているという理由であなたは人とセックスをすることができる。そしてセックスは影のように愛の一部となって、愛の後を追っていくようになる。そうなるとセックスは美しい。もはや動物の世界のものではなくなる。なにか『超えたもの』がそのなかに入ってしまっている。あなたがひとりの人を深く愛しつづけていくと、だんだんセックスは消えていく。親密さが満ちあふれてくる。そうなるとセックスは必要なくなる。愛だけで充分だ。こういった瞬間がやって来ると、祈りがあなたを訪れるかもしれない。愛し合うふたりが深い愛に在るとき、ふたりは愛だけで満ち足りてしまう。そしてセックスは落ちてしまう。これはセックスを押さえてしまったからではない。ただ消えてしまった。セックスということばこそが、『分割』という意味の語源から来ている。愛は統合する。セックスは分割する。セックスは隔たりの根本の原因となっている。

 男であれ、女であれ、ある人とセックスをしているとき、セックスによってあなたたちは統合されていると思うだろう。ほんの一瞬、それはあなたに統合の幻想を与えてくれる。しかしその後で突然、途方もない隔たりがやって来る。それでセックスの後にはいつも、欲求不満、憂鬱さが始まる。自分があまりにも愛する者からかけ離れていると感じる。セックスは隔てる。そして愛がより深く深く進むにつれて、より統合されるにつれて、セックスは必要なくなる。あなたたちの内側のエネルギーがセックスなしで出会えるようになる。あなたたちは『ひとつの全体』に生きる。セックスが消えた、愛し合うふたりを見ることがあるだろう。セックスが消えたとき、ふたりにやって来た輝きを見ることがあるだろう。ひとつの魂のなかのふたつの肉体として彼らは在る。魂が彼らを包みこんでいる。それはふたりの肉体のあらゆるところから輝きを放っている。しかしこういったことはめったに起こらない。人びとはセックスとともに終わる。一緒に住んでいると、たいていお互いに親近感が湧くものだ。たいていの場合は。けれども愛は単なる親近感ではない。愛はふたつの魂の統合だ。ふたつのエネルギーが出会って、ひとつの全体となる。これが起こるとき、そのとき初めて祈りが可能になる。『ひとつ』となったふたりは、あまりにも満ちたりて欠けたものがないので……感謝が湧きあがる。ふたりは祈りとともにハミングを歌い始める。愛はこの存在全体のなかでもっとも偉大なものだ。実際、あらゆるものが、ほかのあらゆるものとともに、愛のなかに在る。あなたがなにか内側の頂点に達するときはいつでも、すべてのものがほかのすべてのものを愛している、ということに気づくだろう。あなたが愛のようなものを見つけられないときでも、あなたは憎しみを感じられる。憎しみは愛が誤った方向へ向かったものにほかならない。あなたは無関心を感じる。無関心は、愛がまだあふれだすまでの勇気に欠けている状態にあるにすぎない。閉ざされた人を感じるときがあるだろう。彼はあまりにもたくさんの恐怖と不安を感じているにすぎない。だから彼は最初のステップを踏めずにいる。けれども、すべてが『愛』だ。

 動物が別の動物へと飛びかかって食いつくすときでも——ライオンは鹿に飛びかかって鹿を食べてしまうが——それは愛だ。これは暴力のように見えるだろう。あなたは知らないから。しかし、これは愛だ。その動物、ライオンは、鹿を自分のなかへ吸収してしまう。もちろんとても荒々しい。とても粗野で原始的だ。動物的だ。それでも、それは愛だ。愛し合うものはお互いを食いつくしてしまう。お互いを吸収してしまう。動物はとても粗野な方法でこれを行っている。それだけのことだ。存在全体が愛のなかに在る。木々は大地を愛している。大地は木々を愛している。それでなかったらどうやって彼らが一緒に存在できるだろう? なにによって彼らは一緒にいられるのだろう? そこには共通の環があるはずだ。この環は根が大地にあるということだけではない。もし大地が木を深く愛していなければ、根もその木を助けることはできない。目には見えない深い愛が存在している。全存在が、全宇宙が、愛のまわりをまわっている。愛はリタンバラだ。それで昨日私はこう言ったのだ。真実と愛を足すと、リタンバラとなる。真実だけではあまりにも乾いてしまっている。もしこのことが理解できれば……いまはただ頭で理解できるだけだろう。が、記憶のなかにとどめておきなさい。いつの日かこれがあなたの実存での経験となるだろう。敵対している者たちはお互いを愛している。そうでなかったら、どうしてそんなに厄介をかけあうのかね? 神はいない、と言っている者さえも神を愛している。彼は絶えず神はいない、と言っている。彼は取りつかれている。神に魅せられてしまっている。さもなければ、どうしてそんなに神の邪魔をするのかね。無神論者は生涯ずっと、神がいないことを証かそうとしている。彼はそれほどまでにも神の愛のなかにある。それほどまでも神を恐れている。時が来れば、彼の実存には途方もない変容が起こるだろう。それで恐れている。彼は証かしつづける。「神はいない」——こうやって努力しているとき、無神論者は神が自分を呼んでいるという深い恐れを表してしまっている。そしてもし神がいれば、彼はいまのままではいられなくなる。

 これはちょうど、目を閉じたり、半分閉じたりして通りを歩いている僧侶のようなものだ。僧侶は女性を見ないようにしている。彼は自分にこう言いきかせつづける。「女性なんて存在しないものだ。すべてがマーヤ、幻想だ。ただ夢のようなものだ……」それならなぜ、ただ夢のようだと言いつづけるのだろう。なぜ、この愛すべきものが存在しないなどと証そうとするのだろうか。なぜなら、そうしなければ僧院は消えてしまうだろう。僧侶という階級も消えてしまうだろう。僧侶たちの人生のすべてのパターンがこなごなになってしまう。

 すべてが愛だ。愛がすべてだ。——もっとも粗野なものからもっとも超えたものまで。岩から神にいたるまで——愛だ。たくさんの層、たくさんの段階、程度がある。しかし、愛だ。あなたがひとりの女性を愛することができれば、あなたはマスターを愛することもできるだろう。マスターを愛することができれば、神を愛することも可能となる。女性を愛すると、その肉体を愛することになる。肉体は美しい。肉体にはなにも問題はない。それはまさにひとつの奇跡だ。ともかくあなたが愛することができれば、愛は成長する。

 インドの偉大な帰依者、ラーマヌジャがたまたまある街を通りかかったときのことだった。ひとりの男がやって来た。その男はきっとごく普通の意味での宗教に魅せられたタイプだったのだろう。苦行者タイプ、愛することなしに生きようとしている男だったのだ。いままで愛なしに、成功した者はいないし、これからもいないだろう。なぜなら、愛は、生と存在の根本のエネルギーだから。愛に背を向けて成功できる者はいない。その男はラーマヌジャにたずねた。「私はあなた様に帰依したいのですが、どうやったら神を見つけることができるのでしょう。弟子として受け入れていただけますか」——ラーマヌジャはその男を見つめた。ある男が愛に背を向けているときはあなたにもわかるだろう。彼は死んだ岩のようだった。まったく乾いてしまっている。ハートがない。ラーマヌジャはこう言った。「まず、いくつか教えてくれるかね。おまえはいままでに誰かを愛したことがあるかね」これはその男にはショックだった。ラーマヌジャのような人が愛について語るなんて。そんなあたり前の世俗的なことを語るなんて。彼はこう言った。「あなたはなにをおっしゃるんですか。私は宗教的な人間です。私は誰のことも一度も愛したことはありません」ラーマヌジャはなおもこう言った。「目を閉じてちょっと思いうかべてごらん。おまえは愛を悪く言うけれども、もしかしたら愛したことがあるかもしれない。実際に愛したことはなくても、空想のなかで愛したかもしれない」男はこう答えた。「愛は絶対によくありません。愛はマーヤ、幻想のすべてのパターンだからです。わたしはこの世から抜け出したいのです。愛っていうのは人びとがこの世から抜け出せない理由じゃないですか。一度も愛したことはありません。空想のなかでも!」それでもラーマヌジャはこうたずねた。「ちょっと自分の内側を見てごらん。ときどき夢のなかに愛しているものが現れたかもしれないからね」男は言った。「それで私はあまり眠らないんです。けれども私は愛を教わるためにここへやって来たのではありません。私はここに、祈りを教わるためにやって来たのです」ラーマヌジャは悲し気にこう答えた。「私はおまえを助けることはできない。愛を知らない男がどうやって祈りを知ることができるかね」

 なぜなら祈りはもっとも洗練された愛、本質的な愛だから。まるで肉体が消えて愛のスピリットだけが残っているかのように——。ランプはすでにないのに炎だけがともされている……。花は大地に消えてしまっても、その芳しさがあたりに漂っている——それが祈りだ。セックスは愛の肉体だ。愛はそのスピリットだ。そして愛が祈りの肉体となると、祈りはそのスピリットとなる。あなたはひとつの中心のまわりに円をいくつか描くことができるだろう。まず始めの円はセックスだ。ふたつめが愛、そして三つめが、これが中心となるが、祈りだ。セックスを通してあなたは相手の肉体を見つける。そして相手の肉体を見つけることによって、あなたは自分自身の肉体を見つけるのだ。

 誰かとセクシュアルな関係にはいったことがない人には、自分自身の身体の感覚がない。なぜなら、誰があなたにこの感覚を与えてくれるのだろう。誰もあなたを愛に満ちた手で触れてくれたことがない、誰もかわいがってくれたことがない。誰もあなたを抱きしめてくれない。そうだとしたらどうやってあなたは自分の肉体を感じられるだろう。あなたは幽霊のようにいるだけだ。あなたの肉体がいつ終わり、次の肉体がいつ始まるのか、あなたにはわからない。愛に満ちた抱擁のなかで初めて、肉体は形をえる。あなたの愛する人が肉体の形をあなたに与えてくれる。彼女があなたを形造るのだ。彼女があなたのまわりを囲んで、あなたの肉体がどんなものなのかを示してくれる。愛する人がいなければ、あなたは自分がどんなタイプの肉体なのかわからない。あなたの肉体の砂漠のなかにはどこにオアシスがあるのか、どこに花は咲いているのか、そしてあなたの肉体のなかでどこが一番生き生きしていて、どこが死んでしまっているのか。あなたにはわからない。あなたは自分の肉体を知らないままだ。誰があなたとあなたの肉体を近づけてくれるのだろう。実際、あなたが恋に陥り、誰かがあなたの肉体を愛してくれるとき初めて、あなたは自分の肉体に気づくだろう。自分が肉体を持っていることに気づくのだ。

 愛する者たちはお互いに助けあって、自分の肉体を知る。セックスは、あなたが相手の肉体を理解するのを手助けしてくれる。そして相手を通して、あなたは自分自身の肉体を感じ、その形をはっきり捕らえる。セックスによって、あなたは具現化され、肉体に根ざすようになる。そして愛によって、あなたはあなた自身を感じる。魂、スピリット、アートマというふたつめの円だ。そのあとで、祈りがあなたを助けてくれる。無我、ブラーフマ、神を感じるようになる。これは三つめの段階だ。セックスから愛へ、愛から祈りへ、というように。そして愛にはいろいろな次元がある。エネルギー全体が愛ならば、それはいろいろな次元へと進むものだから。あなたがひとりの女性、男性を愛する。——あなたはあなたの肉体を味わう。あなたはマスターを愛する。そうすると今度はあなたはあなたの自我、実存を味わうようになる。この経験を通して突然、あなたは『全体』と恋に陥る。そしてあなたはすべての存在の内側に在る核へと行きあたるのだ。キリストは正しかった。「神は愛なり」——なぜなら、愛はエネルギーだから。星や雲を動かすエネルギーだ。種子を芽吹かせ、鳥たちに歌わせるエネルギーだ。そしてあなたをここに存在させるエネルギーだ。愛はもっとも不思議な現象だ。リタンバラだ。