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あなたの子ども時代に戻れ

 Osho, 教育は瞑想に導くでしょうか? 教育と瞑想について説明して下さい。

 教育とは、自分自身と、そして存在への信頼であり、何であれ自分の中に隠れているものが表れてくるのを許し、何であれ内にあるものを引き出すことだ。
 だがこれは、世界中で続いているいわゆる教育に関しては真実ではない。それは引き出すどころか、ものごとを押し込んでいる。たんに情報を注ぎ込んでいる。この「情報」という言葉もまた間違いだ。それが使われるべきではない――それは「アウト-フォーメーション」だ。「イン-フォメーション」とは、あなたの内側での発達ということだ。何かがあなたの中で育たなければならない――そうしたら、それは「イン-フォメーション」だ。だが、誰もあなたのことなどは気に懸けない。社会はそれ自身の見解、イデオロギー、偏見、テクノロジーを気に懸けており、あなたに強い続けている。あなたの頭は空っぽの場所として使われる。だから、彼らはそこに家具を入れなければならない。
 ふつうの教育は、あるいは何であれ教育の名のもとに行われているものは、あなたの頭に知識を詰め込むことにほかならない――なぜなら、知識には何らかの実用性があるからだ。誰もあなたのことなど気に懸けてはいないし、誰もあなたの運命のことを気に懸けてはいない。彼らには医者がもっと必要であり、彼らには技術者がもっと必要であり、彼らには将官がもっと必要であり、彼らには専門家が、配管工が、電気屋がもっと必要だ。彼らはそれらを必要としているから、あなたを配管工になるように強いる。あるいは医者になるように強いる。または技術者になるように強いる。
 私は技術者や医者になることがいけないと言っているのではない。しかし、もしそれが外側から強いられたものなら、それは確かによくないことだ。もし誰かが医者へと開花したのなら、彼のまわりには大いなる癒しが起こっているのを見ることができるだろう。そうなれば、彼は生まれながらの癒し手だ。彼こそは真の医者であり、彼には黄金のタッチがある。彼はそうなるように生まれついた。
 だが、外側から強いられて、それを職業として選ぶとき――なぜなら人は生きなければならないし、学ばなければならないし、自分の生計を立てなければならないからだ――人はその職業を引き継ぐ。そうなれば人はかたわになり、その重みで押しつぶされてしまう。人はただ、だらだらと生を引きずり、そしてある日、死んでしまう。その人生には一度も祝祭の瞬間がなかった。もちろん彼は、今度は子どもたちが医者になるための金を充分に残している。彼らが大学に、自分が破壊されたのと同じ大学に行くための金を。そして彼の子どもたちもまたその子どもたちに同じことをやり、こうして世代から世代へとものごとが受け継がれてゆく。
 いいや、私はこれを教育とは呼ばない。それは犯罪だ。このような教育にもかかわらず、ときに世界にブッダが花開くのはまさに奇跡だ。それは奇跡だ。誰かがそこから逃げ出し得るということは、ほんとうに信じられないことだ――それはあなたを殺すための方法論であり、それはそのように作られている。小さな子どもたちは、自分たちがどこに行くのか知らないまま、自分たちに何がなされるのか知らないまま、そのメカニズムに捕らえられてしまう。それに気づくようになる頃には、彼らは徹底的に堕落させられ、破壊されてしまっている。自分の人生に対して何ができるかを考えられるようになる頃には、彼らはほとんどどの方向にも動くことができないようになっている。
 25か30歳になる頃には、人生の半分は終わっている。もはや変わることはあまりにも危険なことのように思われる。あなたは医者になり、仕事はうまくいっている。ある日、突然、あなたはそれが自分のなるべきものではなかったことに気づく。これは自分には向いていない――が、いまになって何ができよう? だから自分は医者だというふりをし続けなければならない。そして医者が医者であることに喜びを感じていなかったら、彼はどんな患者も助けることはできないだろう。彼は患者に薬を与え、治療を施すが、ほんとうの意味での癒しの力にはならないだろう。医者がほんとうに医者だったら、生まれながらの医者だったら……。誰もが何かに生まれついている。あなたはそれを取り逃がすかもしれないし、それを知ることさえないかもしれない。誰かは生まれながらの詩人であり、詩人を作るということはできない。詩人を作り出す方法はない。誰かは生まれながらの画家であり、画家を作り出すことはできない。
 だが、すべてのものごとが間違った場所にある。画家は医者として働いており、医者は画家として働いている。政治家がいる――たぶん彼は優れた配管工になれたのかもしれないが、首相か大統領になっている。そして首相になり得た人が配管工になっている。
 世界にこれほどの混乱があるのはそのためだ。誰もが間違った場所にいて、誰ひとり、まさに彼がいるべき場所にはいない。正しい教育は、まさしく瞑想への道になる。間違った教育は瞑想への障害になるが、それは間違った教育があなたに合わないことを教えるからだ。何かがあなたに合わず、そしてあなたがそれに合わない限り、あなたはけっして健康で全体的にはなれない。あなたは苦しむだろう。
 だから、ほとんどの場合、教育を受けた人が瞑想に興味を持ったら、彼は自分の学んだすべてのことを忘れなければならない。彼は再び子ども時代に戻り、そこから、ABCから始めなければならない。私が、あなたが再び子どもになることができる、一定の瞑想法を強調するのはそのためだ……。私の瞑想はあなたを子ども時代へとつれ戻すものだ――あなたがまだ地位を得ていなかった、気違いじみたことができた、無邪気だった、社会に汚染されていなかった、世間のどのような手口も習っていなかった、あの世指向ではなかった、この世界に対立していなかった時代に。私はあなたにその地点まで戻ってほしい。そこから、再び始めることだ。これはあなたの人生だ。名声や金はブービー賞であり、それらはほんとうの賞ではない。そんなものにだまされてはいけない。[……]
 私にとっては、教育が正しければ、それは単に瞑想の一部になるだろう。瞑想はその最後の課目になる。もし教育が正しかったら、大学は宇宙に対立すべきではない。それはただ訓練の場所であり、宇宙への跳躍台になるべきだ。もし教育が正しかったら、それは金などには関心を払わないだろうし、権力や地位には興味を持たないだろう。それはまったく政治的なものではないだろう。
 もし教育が正しかったら、それはあなたの至福、幸福、音楽、愛、詩、ダンスに関心を向けるだろう。それはあなたに、どのように開花していくかを教えるだろう。たんに頭の中に情報を投げ込み続けるようなことはなくなるだろう。それはあなたが自らの実存から出て、花開き、成長し、伸びて広がり、拡大してゆくのを助けるだろう。それは全面的に異なった教育になるだろう。
 そして自然に、教育が瞑想とかかわりを持つようになったら、それは宗教的なものになる。私が教育を宗教的と呼ばないのは、それがキリスト教の教義を教え、あるいはヒンドゥー教を教えているからだ。それは宗教的ではない。教育が宗教的になるとしたら、それは自分自身を受け容れ、自分の人生を生き、自分を自分なりのやり方で、独自のやり方で神への贈りものとできるような、そういう勇気をあなたに与えるものになるだろう。
 

Osho, The Discipline of Transcendence Vol. 4, #6 から抜粋