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父親の死

 あるサンニヤシンが、55歳になる父親が癌で死にかけていたために西洋へ戻っていたことを話しました。

 それ程の年齢ではない――だが、死に老若の区別はない。死は来る時には来る。死の前で私たちにはなす術がない、そしてこの死に対する無力さこそが、あらゆる宗教の源となった。死をなくすことができたなら、あらゆる宗教はこの世から消え失せるだろう。死とは「生」を深刻にとらないようにという神からの注意だ。生は束の間のもの、やがては過ぎ去らねばならないものだ。だから「生」を深刻なものと捉えずに楽しめば良い、なぜなら死がやって来れば、この「生」で築き上げてきたものなど全て消えて失せてしまうのだから。唯一瞑想だけが、死によっても破壊されることのないものだ。瞑想だけが、この世にありながらこの世のものではないもの。それは「生死」を超えたものだ。

 だから、泣かなくても良い、あなたの父親を可哀相だと思わないことだ。というのも55歳で死のうが、95歳で死のうが違いはないのだから。ある人の夢は少し短く、ある人の夢は一寸ばかり長い。だが夢は夢に過ぎない。夢の長さなどに、詰まるところ何の意味もない。どれ位長い夢を見るかなど、どうでも良いことなのだ。

 人は55年、95年、500年と生きることも出来る。だが死が訪れれば、全ては消え失せてしまう。それはちょうど、朝が訪れて目が覚めれば、夜の間見ていた夢の世界は、あっと言う間に意味のないものになってしまうのと同じようなこと――あらゆる意味は失われてしまう。

 だから、父親の死を「注意を促すもの」ととりなさい、なぜなら、父親や母親といった身近な人が死ぬ時には、あなたの中の何かも死ぬのだから。父親は、あなたの外側だけに「いる」のではない、彼の実存はあなたの実存にも重なっているのだ。あなたは彼を通して生まれてきた、彼はあなたをこの「生」に運んできた媒体だ。そして、彼はあなたの内なるスペースの一部でもある。父親や母親が死ぬ時、あなたの中の何かも彼らと共に死ぬのだ。あなたは以前と同じ人ではなくなってしまう。そこにはギャップが生まれる。父親に代われる人、母親に取って代われる人はいない。彼らはかけがえのない人なのだ。

 だから、嘆き悲しむのはやめるがいい――それは、死を避けようとする心(マインド)の策略だからだ……嘆き悲しみ始めれば、あなたの周囲に霧や靄がかかり、死の真実が見えなくなってしまう。死は何の感情も交えずに、直視すべきものだ。そうすれば、死は瞑想になりえる。感情に流されることなく、まっすぐに死を見つめてごらん。

 あなたの父親は死んだ――それは事実だ。そして、あなたが泣こうが泣くまいが何も変ることはない。だったら泣くことに何の意味がある? 父親のことを嘆き悲しもうが、悲しまなかろうが、何も変わらないのだ。死は起こった、それを元に戻すことは出来ない。だったら、時間を無駄にするよりも、死を見つめてごらん。死に深く見入ってごらん。すると父親の死の中に、あなた自身の死、そしてあなたの子どもたちの死、孫たちの死が浮かび上がって来るのが見えるだろう。父親の死の中に祖父、曾祖父、さらにその祖父、あなたの家系に連なる人びとの死を見ることだろう。

 死は普遍的な事実だ――誰も例外ではない、その例にもれる者はいないのだ。金持ちも貧乏人も、知性ある者もない者も、白人も黒人も、強者も弱者も、信心深い者もそうでない者も、聖者も罪人も、誰も例外ではあり得ない。死は全く普遍的だ。死の事実に見入ってごらん、するとこの存在にある全てのものが死んでいくのが分かるだろう。そして、理解することによって深い洞察――死ばかりでなく「生」についての洞察も得られるだろう。というのも、死を運んで来るのも「生」なのだから。

 死は「生」の中に包含され、組み込まれている。子どもは誕生すると、まさにその最初の呼吸から死にはじめる。ひとつ呼吸する度に、子どもは「ひと呼吸分だけ」年老いて行く――何かが死んだ。まさに誕生の最中から何かが死に始める。死が覆い尽くすのには、70年、55年、90年と時間を要するが、「生」はその中に死の種を携えているように見える。

 感情に邪魔されることなく、この父親の死に見入ってごらん、それを瞑想として見るのだ。直視してごらん。するとまさにその死と体面することで「生」についての深い理解が生まれるだろう。そうなれば、あなたの「生」は以前と同じものではなくなる。同じままであることに何の意味がある? あなたの父親のしてきたことには何の意味もなかった。あなたも父親と同じことを続け、死がやって来れば、全ては水の泡に帰する。だから、そうではなく、死をもってしても破壊されることのない何かをやってごらん。

 そして私はあなたに言おう、死をもってしても破壊出来ないもの、それは瞑想だ。あらゆるものが死の前では儚い。瞑想だけが違う。内なる世界に深く進むにつれ、死からは遠ざかって行き、内なる世界から遠ざかるだけ、死へと深く向かうことになる。最奥の核には死というものは存在しない。そこから遠く離れた表層には、死だけが存在する。それ以外は何もない。外側に目を向ければ死を見ることになり、内側に向かえば「不死」を見いだすことになる。そして、この「不死」こそが、瞑想とは何たるかについての全てだ。普段、死について考える人は誰もいない、だが何かこのような不幸が起こった時……父親、母親、愛する人はもはやいない、子どもが死んでしまった――このようなまたとない瞬間を逃してはならない、無駄にしてはならない。

 だから、先ず感情から抜け出すことだ、それは何の役にも立たない。このチャーリー・ブラウンの靄から抜け出して死を見つめてごらん。死は遠ざかるにつれて単なる記憶となってしまい、あなたはそれを記憶として受け入れてしまう。そうなったら、死を活かすことは不可能だ。あなたはまだ死の近くにいる、死はまだ「新鮮」だ、あなたの傷はまだ癒えていない。私には傷がまだそこにあるのが分かる。傷が回復する前に、死を利用しなさい。そうすれば、この傷は「生死」を超えたものへのメッセージになり得る。

 よろしい、死を瞑想としてごらん――そしてもっと愛しなさい。愛と死は非常に似通っているのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

The Great Nothing, #15