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逃げても無駄だ

 Osho,私は自分の身も心も委ねて、日に何時間もなにものにも邪魔されずに深く瞑想するためには、隔絶した安全な場所が必要だとしばしば感じます。私の知るところでは、多くのヨーガの師(マスター)たちは世間から身を引かなければならないと教えています。実在をはっきりと見るために、迷妄(マーヤ)をどのようにして避けたらよいのでしょうか?

 まず第一のこと。自我(エゴ)はいつもありとあらゆるやり方で隔絶を求めている。大金持になると、あなたはほかと隔絶する。政治的に大きな権力をもつようになると、あなたはほかと隔絶する。アドルフ・ヒトラーのような人は孤独であり、ヒマラヤにいるヨーギよりもなお孤独だ。彼には友人はいないし、自分に等しい人はいない。彼に人間関係はない。大金持はヒマラヤの頂上に達し、そこで独りになる。人が富を求め、人が政治的な権力を求めるのはそのためだ。
 エゴはつねに隔絶を求めている。なぜなら、独りになると、そのエゴだけが残るからだ。エゴが全世界になる。あなたのエゴと闘う者はいないし、あなたを蔑む者はいないし、自分と比べるような相手はいない。あなたの目には自分がいちばん優れているとしか見えない。自分のエゴを完全に信じることができるし、それを妨げる者はいない。
 私は隔絶し、孤立することに反対だ。実際には、あなたはエゴを隔絶させるのではなくて、それを溶かし去らなければならない。あなたは独立して、世界から切り離されて、小島になるべきではない。大陸の一部に、それとひとつになるべきだ。孤立していて、どうして実在の一部になれるだろうか? 実在から隔絶するのではなく、それに参入してゆかなければならない。そしてヨーガにおいていちばん重要なのは愛だ。愛すれば、人は自分をなくさなければならないし、死ななければならないし、溶けて、混じり合わねばならないからだ。
 私は隔絶ではなく、愛することを教える。隔絶は世間的なやり方であり、宗教的なやり方ではない。だが、現実には、あなたは富を、政治的権力を、所有物を探し求めてきた。そして欲求不満に陥った。そうしてヒマラヤのほうに目を向け、世間を棄てた。エゴを放棄せずに、あなたは世間を棄てた。世間を棄てるのではなく、エゴを棄てよ、と私はあなたに教える。
 エゴはとても微妙なものだ。政治的な権力を獲得できないとなったら、宗教的な霊力を獲得しようとする。あなたはそれをクンダリーニと呼ぶが、やはりそれは力(パワー)であり、あなたを隔絶させ、独自の、孤立した、小島にするものだ。宗教もまた力の探求にほかならないとしたら、そこで隔絶が必要になる。
 だが、宗教は力の探求ではない。それは沈黙の探求だ。それは安らぎの探求だ。それはイエスが「霊魂において貧しい者」と呼ぶ、内なる貧しさの探求だ。それは在ることと在らざることの違いがなくなるような在り方の探求だ。存在しないことが、あなたの唯一の存在になる。
 これは独立を通してではなく、あなたが相互依存を理解するようになって初めて可能になる。この三つの言葉を覚えておきなさい――依存、独立、相互依存。あなたは依存しており、独立を探し求めているが、私は相互依存を教える。あなたは依存している。あなたは至るところで依存していると感じ、至るところで限界に行き当たる経験をしている。誰かを愛したら、あなたは彼または彼女に依存しなければならない。生は至るところで依存をもたらす。そこで世間にいたらけっして自立できないという考えが起こってくる。世間から逃げ出すのだ、と。逃げ出すことはできるが、自立することはけっしてできない。ただ自分をだますことができるだけだ。たとえヒマラヤにいても、あなたは自立していない。あなたはいまだに太陽に依存している。太陽が昇らなかったら、あなたはただちに死んでしまう。あなたは空気や酸素に依存している。酸素がなくなったら、あなたは死んでしまう。あなたは水にも依存している。あなたはありとあらゆるものに依存している。
 依存は理解するべきものであって、避けるべきものではない。依存を理解したら、あなたはただちにその背後には相互依存が隠れていることを理解するだろう。依存はたんに誤った解釈にすぎない。真実を知った者たちは、あなたが太陽に依存しているだけではないことを知っている。太陽もまたあなたに依存している。太陽なくしてはあなたがありえないように、あなたなくしては太陽もありえない。小さな草の葉一枚が欠けただけでも、存在からはなにか大切なものが失われてしまう。そこには透き間が、空白が残る。
 だから星々は偉大だが、草の葉はちっぽけなつまらないものだと考えてはいけない。存在には、大きなものも小さなものもない。なぜなら、存在はひとつだからだ。
 それが生態系(エコロジー)という言葉の意味だ。それは相互依存のことだ。生態系はこの地球だけのことではなく、宇宙全体にまでも及んでいる。生態系は霊精神的な現象だ。
 あなたは誤解している。あなたは相互依存を独立だと誤解している。それは間違った認識であり、その間違った認識ゆえに、間違った欲望が起こってくる――どうやったら独立できるだろう、という。ひとつの失敗から別の失敗が生じてくる。独立することなどできない。誰か独立を教える者がいるとしたら――それを教える人たちが確かにいる――彼らは愚にもつかないことを教えている。あなたは部分であり、全体とひとつであり、海の波だ。波が独立することはできない。海から波だけ取り出すことができるだろうか? そして海も波なしでは存在できない、ということも言える。波がなかったら海も消えてなくなってしまう。海がなければ波はないし、波がなければ海もない。なぜなら、波は海の波立ちにほかならないからだ。言葉ゆえに、分離が生じてくる。「海と波」と言うけれど、実際には、「海と波」などというものはないし、それらはひとつのもの――波立っている海だ。波は物ではない……プロセス、動き、海の呼吸だ。あなたと呼吸は別々のものではない。あなたは呼吸であり、呼吸はあなただ。あなたは呼吸し、呼吸があなたを呼吸している――それは分けることができない。
 生はひとつだ。このひとつのものを表す言葉が相互依存であり、神はその別の呼び名にすぎない。愛はさらに別の呼び名であり、このほうが神よりもいい。なぜなら、「神」という言葉は神学者たちによって損なわれてしまったからだ。「愛」はいまだに純粋で汚れがない。
 だからまず第一に理解すべきことは、私は隔絶を教えてはいないということだ。私は自我(エゴ)を教えてはいない。世のいわゆるヨーガのマスターたちは多かれ少なかれエゴイストだ。
 ある男が私のもとにやって来て、自分は真の求道者だと言った。エゴが新たな満足の道を見いだしたのだ。この真の求道者は、とても年老いていた。自分は生涯をかけて完璧なマスターを、世界一のマスターを探し求めてきた、と彼は言った。というのも、それ以下のものでは満足できなかったからだ。「それで、見つけられたのかい?」と私はたずねた。「それが、多くのマスターに出会ったのですがね、結局はそこにいられませんでしたよ。ある者は自分で自分をだましていましたし、ある者は他人をだましていましたし、ある者は狂っていましたし、ある者はたんなる間抜けでしたし、ある者は金目当てでしたし、ある者はオウムのようにベーダやウパニシャッドの引用をしているだけでした。そのほかにも多くの正しくない導き手に出会いました。でも……」と彼はそこで目を輝かせて言った、「私はついに見つけたのですよ、完璧なマスターを。それで私はすぐに彼に言いました、『あなたこそ世界一のマスターです』」私はこの求道者にたずねた、「いつそう言ったのだね?」彼は言った、「彼が、『おまえは世界一の弟子だ』と言ったすぐあとにですよ……間髪を入れずにね」
 エゴは増長するための別の手だてをいつも探し求めている。ヨーガの名のもとに、多くのエゴ・トリップがつづいている。その仲間になってはいけない。私は隔絶を教えない。世間を棄てるのではなく、エゴを棄てなさい。世間が問題なのではない。この世は途轍もなく美しい。それは純粋な歓びであり、そこになにひとつ間違ったものはない。世間ではなくて、あなたのなかのなにかがおかしい。自分のなかの間違ったものを棄てなさい。世間を放棄してはいけない。私は世間を棄てることではなく、この世を喜び祝うことを教える。私は生を肯定する。生を無条件に肯定する。あなたに放棄を教える者たちは有害であり、彼らは完全に間違ったことを最初から教えていたのだ。彼らは世間が間違っているのだと言い、それを迷妄と呼ぶ。私は世間ではなく、あなたがマーヤなのだと言う。エゴが唯一のマーヤ、唯一の幻影だ――これらの樹木ではなくて。これらの樹々はただただ美しい。これらの花々ではなくて、これらの鳥たちではなくて、この大空ではなくて、この太陽ではなくて、これらの星々ではなくて――いいや、それらはただただ美しくて、神聖で汚れないものだ。
 あなたがマーヤだ。だから、なにかを棄てたいのなら、自分自身を棄てるがいい。なにかを放棄したいのなら、自分自身を放棄しなさい。そしてその唯一の道、自分自身を放棄する唯一の道は喜び祝うことだ。なぜなら、いつであれ幸せなとき、あなたはいないからだ。いつであれ悲しいときには、あなたがそこにいる。いつであれ落ち込んでいるときには、あなたがそこにいる。歓んでいるときには、あなたはいない。至福のなか、歓喜のなかでは、あなたは消えてしまう。嘆きと悲しみのなかでは、あなたが再び現れる。見守ってみなさい。笑っているとき、あなたはいない。腹の底から笑ったら、あなたはそこにいない。笑いはあなたの知らない場所から出てくる。それはあなたを超えたところからやって来る。あなたが笑うのではない。笑いがあるときには、あなたはそこにいない。
 踊りなさい。踊りがあなたを乗っ取って、そこにほんとうにダンスがあるときには、もう踊り手はいないし、踊り手は消え失せている。彼は存在していない。そのダンスは途轍もなくリアルなので、その前ではリアルでないものはすべて消え失せなければならない。リアルでないものはリアルなものに対面することができない。偽りのものは真実のものに直面することができない。嘘は真実に向かい合うことができない。暗闇は光に遭遇することができない。真実のものが起こってくるとき――真実のものは、笑いや、ダンスや、愛のなかで、あなたが全体とひとつになっているときに、そこにある――いつであれあなたが全体とひとつになったとき、そこに真実のものがある。分離したら、あなたはマーヤそのものだ。全体とひとつになったら、あなたは神だ。
 「私は自分の身も心も委ねるためには、隔絶した安全な場所が必要だとしばしば感じます」あなたが独りになるとき、そこに間違った種類の「宗教性」が起こってくる。なぜなら、独りになってしまえば、そこにはあなたを怒らせるような相手はいないし、誰かがなにかのはずみであなたを悲しみに突き落とすことはないし、あなたの偽りの顔を暴くような人もいないからだ。独りきりでいたら、怒りも起こってこない。怒りが消えてしまったのではない。たんに怒るための状況がそこにないだけだ。あなたは怒りでいっぱいなのだが、そこにあなたを侮辱したり傷つけたりする人はいない。ただその機会がないだけだ。世間に戻ってきたら、たとえヒマラヤに50年間暮らしていたとしても、世間に戻ってくれば、前とちっとも変わりなく、あなたはなにかのことに腹を立てるだろう。前よりももっと腹を立てるかもしれない。なぜなら、50年間も怒りをため込み、毒をため込んできたからだ。そのころには世間に帰ってくるのが恐ろしくなっている。
 ヒマラヤに行きなさい。あなたはそこで多くの人びとがたむろしているのを目にするだろう。彼らは臆病者で、世間に戻ってくることができない。恐れを抱く汚れのなさなど、いったいどんなたぐいの汚れのなさだろうか? 恐れを抱くなんて、それが真の独身生活だろうか? マーヤを、幻影を恐れるなんて、いったいどんなたぐいの真理だろうか? 暗闇を恐れるなんて、それが光と言えるだろうか? 暗闇に出会ったら、暗闇のほうが強くて、それに負けてしまうのか? 暗闇が光を打ち負かしたことなどあるだろうか? だが、彼らはそこにたむろしている。そこに居座っていればいるほど、世間に戻ってゆくことは難しくなってゆく――ヒマラヤでは美しい自画像を描くことができるからだ。それをぶち壊す者はひとりもいない。世間だったらそうはいかない。誰かが、どこかから現れて、あなたの足を踏んづける。誰かが、どこかから現れて、あなたを傷つける。あなたは怒りを落とさねばならない。私はあなたを変えるために全努力を注いでいる。状況を変えるのではなくて、自分を変えなさい。状況を変えても誰の助けにもならない。それが助けになった試しはない。
 あなたは「日に何時間も瞑想する」ことを考えている。瞑想が生き方にならないかぎり、たとえ一日に24時間瞑想したとしても助けにはならない――それは瞑想をするということではない。1時間、2時間、3時間、6時間、多くの時間、24時間瞑想しようと、気が狂うことはあっても、サマーディに達することはない。
 瞑想のことを完全に忘れたときにサマーディは起こる。それは瞑想をするということではない。あなたの生き方そのものが瞑想的だ。あなたの身振り、あなたの歩き方、あなたの食べ方、それが瞑想的になる。瞑想はあなたの生の質になる。それは量の問題ではない。量でものごとを計ってはいけない。瞑想をすればするほど、なおいっそう自分に瞑想が起こるのだと考えてはいけない……それは愚かしい。「もっと」が問題なのではない――量ではなくて質だ。
 瞑想はどんどん稼いでため込んでゆく金のようなものではない。瞑想は生き方だ。金銭ではないのだから、ため込んで、積み上げてゆくことはできない。それはあなたの在り方だ。
 だからあなたがたがコミューンでやっているのはほんとうは瞑想ではない。それはあなたがたが見ることができるための状況にすぎない。瞑想のための準備にすぎない。「瞑想」と呼ばれているのは、それがあなたを正しい瞑想に向けて準備させるからだ。それは基盤を整え、基盤を浄化するためのものにすぎない。それはほんとうの瞑想ではない。なぜなら、ほんとうの瞑想は、ほんとうの愛がそうであるように、することではないからだ。それは起こる。あなたはただ自分の心身をきれいにすればよい。自分を浄化したら、乗り物になるための、乗っ取られるための準備が整う。そうなったら、なんであれあなたのすることは瞑想的になる。
 泥棒が、あるいは屠殺人が光明を得たという話が残っている。このような人たちでも光明を得ることができたのは、彼らがそれを瞑想的にやったからだ。ある道家の話を聞いたことがある――。
 ある中国の皇帝がひとりの屠殺人を召し抱えていた。彼は屠殺人が調理場で獣を殺すさまを眺めるのを楽しみにしていた。皇帝はいつもそれを見物に行った。なぜなら、その光景はとても美しかったからだ。行為は醜かったが、屠殺人が美しかった。彼はまるで祈りをささげているかのようにそれをやった。深い歓びのなかにあるかのようにそれをやった。皇帝は30年間それを見つづけていたが、けっして飽きるということはなかった。毎日かたずを呑んで見守っていると、屠殺人がやって来た。屠殺人にはある種独特の雰囲気があって、まるで寺院に行って神に祈るかのようだった――獣を殺しに来たというのに。彼はまず最初に祈り、それから獣に話しかけ、獣に感謝をささげた。獣を殺すときには、彼のあらゆるしぐさは途轍もなく美しいものだった。皇帝はいつもそれを見守った。
 ある日、彼はたずねた、「私はおまえを30年間見守ってきた。一度も飽きたことはないし、いつもかたずを呑んで見守ってきた。一日のうちでこれほど真剣になにかを待ち望むということはほかにはない。その秘密はなんなのだ?」屠殺人は言った、「私にとってはこれが瞑想だからです。私は屠殺人ですが、それは神が望まれたことなのです。私は屠殺人の息子に生まれました。それは神がお望みになったことです。それが私の一生であり、私はそれをひとつの瞑想にしたのです。私が屠殺人であることを神が望まれるのなら、それは仕方がありません。でも、瞑想的になることはできるし、これが私の瞑想なのです。私は深い歓びを感じます。これはたんなる生業ではなくて、愛の行為なのです。獣のなかには神がいて、私のなかにも神がいて、神が神自身を殺そうとしています。それでいいのです。私がじゃまをしてなにになるでしょう? 私はたんに乗り物になり、乗っ取られるのです」
 泥棒や空き巣が光明を得たという話が残っている。彼らの秘密とはなんだろう? 同じことだ。一方ではヒマラヤの奥地で一生を過ごしながら、なにものも得なかった人たちを私は知っている。それは量の問題、どれほどやるかということではない。問題はどれだけそれをやるかではなくて、いかにそれをやるかだ。それにどのような質をもたらすかだ。歩くこともそれだけで瞑想になるし、坐ることもそれだけで瞑想になるし、食べることもそれだけで瞑想になるし、シャワーを浴びることもそれだけで瞑想になる。それを理解しようとしてみなさい。
 瞑想はあなたを取り巻く環境のようなものに、あなたが生きる風土のようなものにならなくてはいけない。どこへ行こうと、あなたはその環境を携えてゆく。私はそれに全力を注いでいる。私があなたがたを隔絶させないのは、一日中瞑想ができるように山々に送らないのはそのためだ。なぜなら、それではあなたがたは間違った認識を、量という認識を抱いてしまうからだ。
 「なにものにも邪魔されずに深く瞑想する……」
 方向がわからなかったら、深いところまで行くことはできない。妨害を避けようとしていたら、深いところまで行くことはできない。なぜなら、どこへ行っても妨害はついて回るからだ。それはあなたのなかにある。妨害は対象ではないし、あなたの外にあるものではない。それは内側にある。受け容れることができなかったら、妨害を受けるし、受け容れたら、妨げは消えてしまう。
 あるとき、こんなことがあった。私は宿屋に泊まっていた。そこには政治家もひとり泊まっていた。それは小さな村の小さな宿屋でのことだった。夜中になると、その政治家がやって来て、こう言った、「とても眠れやしないよ。君はどうして眠れるんだね?」彼は私を揺さぶり起こして、こう言った、「よく眠れたものだね、こんなにまわりがうるさいってのに」
 なぜだかわからないが、およそ2、30匹の犬が……彼らは旅館を住処にしていたのに違いない。村中の犬がそこに集まっていた。たぶん政治集会でもやっていたのだろう。たくさんの犬が集まって、吠えたり喧嘩したり大変な騒ぎだった。
 彼は言った、「よくも寝ていられたものだ。犬のせいで眠れなくて、すっかり疲れてしまったよ」
 それで私はその政治家に言った、「でも、彼らはあなたのことなど気にしていないのですよ。彼らは新聞は読まないし、ラジオも聞かないし、テレビも見ない。あなたのことなどまったく知らないのです。私は以前にもここに泊まったことがありますが、これは毎度のことで、彼らがなにかあなたに特別なことをしてるわけではありません。あなたは闘い、抵抗しているのですよ。彼らが邪魔をしてるという認識が、邪魔をしているのです。犬たちがそれをやっているわけではありません。それを受け容れることですね」私は彼にちょっとした瞑想法を教えた。「ベッドに横になりなさい。彼らの吠え声を楽しむのです。できるかぎり注意深く、それに耳を傾けなさい」
 彼は言った、「どうしてそんなことが助けになるんだね? 私はできることなら逃げ出したいし、犬たちがそこにいることを忘れてしまいたいんだよ。なのにそれに耳を傾けろだって? それじゃあもっと喧しくなるじゃないか」
 私は彼に言った、「とにかくやってみなさい。自分流のやり方でやって、それが失敗してしまったのでしょう。だったら私のやり方でやってごらんなさい。なぜ私がそれでぐっすり眠れたのかわかりますよ」
 彼にはそれが理解できなかったし、また信じてもいなかったが、ほかに方法はなかった。それで彼はそれを試してみた。ものの5分もたたないうちに、彼は眠りに落ちて、いびきをかきはじめた。私は彼を起こして、言った、「さあ、どうですか。すっかり眠ってしまったじゃないですか」
 受け容れたら、妨げになるようなものはなにもない。あなたのなかの拒絶が妨げをつくりだしている。だから瞑想で妨げを受けたくなかったら、どんなものでも拒絶しないことだ。交通の騒音も受け容れるべきだ――それもこの世の一部であり、まったく問題はない。子どもが泣きわめいているのもこの世の一部であって、まったく問題はない。なにも問題はないのだと自分に言い聞かせて、そのなにも問題はないのだという感情を見守って、それを受け容れなさい。あなたのなかのなにかが溶けてゆく。そうなったら妨げはなくなる。そうならないかぎり、どこへ行こうとなんらかのものに妨げを受けるだろう。
 「私の知るところでは、多くのヨーガの師(マスター)たちは世間から身を引かなければならないと教えています」それはまったく必要ではない。必要でないばかりか、有害ですらある。誰が身を引くのか? 身を引くことで、自我(エゴ)は強められる。身を引いてはいけない。それよりも、溶けなさい。私はちょうどその反対を教える。溶けなさい。
 世間から身を引いたら、あなたは二度と世間に戻ってくることができない。世間にありながらその一部にはならない、という生き方をするチャンスを失ってしまう。というのも、それは急には起こらないからだ。それは漸進的なプロセスだ。あなたは少しずつ徐々にその精神を体得してゆかなければならない。それはちょうど小さな種子が芽を出して、だんだんと育ってゆき、やがて一本の木になるようなものだ。そこであなたはこう言うかもしれない――まず世間から身を引いて、それから世間に戻ってくればいいじゃないか、と。そのまさに身を引くことのなかで、あなたは世間と断絶してしまう。戻ってくるのが恐くなる。
 カトリックの修道院、ヒンドゥ教の僧院に行ってみなさい。人びとは恐れている。彼らは戻ってきたくない。ヨーロッパには、いったん入ったが最後、死ぬまで出てくることができない修道院がある。どうしてこんな修道院が存在しているのか?
 歴史的に一度も女性が足を踏み入れたことのない修道院がある。一度も、何百年も男性が足を踏み入れたことのない女子修道院がある。いったいこれが文明なのだろうか? それは恐怖の結晶化以外のなにものでもない――身を引いたまま固まってしまったのだ。彼らも口をそろえて「世間のなかにありながらその一部になるべきではない」と言う。だが、それは起こってはいない。
 世間のなかにありながらその一部にはならないという、美しい空間に入りたいのなら、最初からその道を歩まなければいけない。世間のなかにいて、自分でそれを身につけなければいけない。もちろん、それは難しいことだ。人びとが森のなかに逃げ込むのはそのためだ。そのほうが簡単に見える。あなたはこういった世間から逃げ出した人びとは勇気があると思うだろうか? もしそう思うなら、あなたは彼らを見誤っている。彼らは臆病者だ。彼らは対処できないので逃げ出した。彼らは成長できないので逃げ出した。彼らは世間が辛かったので逃げ出した。だが、彼らは自分たちの逃避を美しく飾り立てている。何百年にもわたって、この臆病者たちが教典や注釈書を書いてきた。ほかにやることはなかったので、彼らはそれをやりつづけた。その全エネルギーは言葉を発することに費やされ、彼らはほかの臆病者たちを説得しつづけてきた。
 宗教とは勇気だ。それは臆病さではない。この世に直面する勇気をもちなさい。最後にはこうなりたいというものがあるのなら、最初からそれでありなさい。そうするしか道はない。第一歩からそれを維持することだ。なぜなら、最初の一歩は最後の一歩でもあるからだ。
 「実在(リアリティ)をはっきりと見るために、迷妄(マーヤ)をどのようにして避けたらよいのでしょうか?」
 なにも避けなくてよい。避けようとすることは恐怖から出てくる。避けないで、それを生きなさい。マーヤを生きれば、あなたは実在(リアリティ)を知るようになるだろう。なぜなら、マーヤもまた隠れた実在だからだ。表面的な事物もまた実在している。繰り返そう、表面的な事物もまた実在している。それを避けてはいけない。そうでないと、実在もまた避けることになってしまう。そのなかに深く入ってゆきなさい。それを生き、それを楽しみ、それに浸透しなさい。ヒンドゥ教徒たちはマーヤをブラフマンの帷子、彼の衣服と呼ぶ。それを避けてはいけない。もし私の衣服を避けて逃げ出したら、あなたは私からも逃げ出してしまう。私の衣服を受け容れて、もっともっとそばに寄らなければいけない。そうして初めて衣服のなかに隠れている、私を知ることができる。
 神はそのマーヤのなかに隠れている。マーヤとは神の魔法という意味だ。「マジック」という言葉はマーヤから来ている。神はこれらの花々のなかに、これらの岩のなかに、あなたのなかにも、私のなかにも隠れている。神はあらゆる眼から見ているし、あらゆる花々からその香りを解き放っている。神はそのようにあるし、これが神の表面的な現れだ。それを避けたら、あなたは神を避けることになる。そのなかに入り、その花の香りのなかに入れば、あなたはそこに隠れている神のかぐわしい香りを見いだすだろう。深い愛、慈しみ、謙虚さのうちに人間のなかに入るなら、あなたはその肉体に宿っている神を、その目の奥底から自分を見つめている神を見いだすことだろう。誰かの目をのぞき込み、深く深くそのなかに入っていったなら、ふいにそこに神を、その絶対的な美しさと純潔さのうちにある神を見いだす。
 私は避けなさいとは言わない。その言葉は私にとっては汚れている。私は入りなさいと言う。神の寺院のマーヤのなかへと。そのなかに入りなさい。世界は神の寺院だ。肉体は神の社だ。そのなかに入りなさい。そのなかに入るためのあらんかぎりの方法を見つけだしなさい。至るところから、あらゆるものを通じて神を見いだそうとしたら、あなたは至るところに、あらゆるもののなかに神を見いだすだろう。
 避けようとしてはいけない。逃避、忌避、放棄、隔絶……といった言葉は間違っている。そういった言葉を使ってはいけない。それをボキャブラリーの、自分のボキャブラリーの一部にしてはいけない。そういった言葉は除外しなさい。肯定的な語彙を見つけ、肯定的な言葉を見つけなさい――参加、コミットメント、楽しむこと、祝祭、喜び、歓喜といった。そうしたらあなたは正しい道にいるだろう。
 実在と幻想は対立するものではない。神とその世界は対立するものではない。神はその世界のなかに隠れているし、実在は表面的な事物のなかに隠れている。そして表面的な事物もまた美しい。
 魂が美しいだけではなく、肉体もまた美しい。それもそのはずだ。なぜなら、肉体のなかには魂が隠れているからだ。魂は肉体を通して無数のやり方で表現をしている。肉体はちょうどランプのほやのようだ。そのなかには名前(本質)があって、炎はガラスを通してその光を外に放っている。美しい人を見たとき、それはただ暗示、示唆にすぎない。その背後には未知の美が隠れている。美しい肉体が魅力的なのはそのためだ。それは自然なことだ。美しい花は魅力的だが、それは自然なことだ。それは暗示、自然な表れ、招待にすぎない。その背後にはなにか美しいものが隠れている。来なさい、私をよく観察して。さあ、おいで、と。美しい肉体が魅力的なのはそこに美しい魂があるためだ。美しい魂を得たなら、あなたは美しい肉体を得るだろう。それはたんなる偶然ではない。内側が美しくなればなるほど、外側もよりいっそう美しくなってゆく。醜い肉体がより深く瞑想にかかわるようになったら、いつのまにかその醜さが変わって、その背後から美しさがだんだんと表れてくるのを目にするだろう。内なる核が美しいものになると、外側に表れているものもそれに従う。
 表面的な事物もまた美しい。ある禅師が亡くなって、彼の一番の弟子はさめざめと泣きだした。何千もの人びとが集まっていた。師は有名な人だったし、その弟子は師よりもさらに有名だったからだ。彼と親しい人たちはそばに来てこう言った、どうか泣いたりしないでください。みっともないじゃないですか。人びとはあなたのことを悟りを開いた人だと思っているし、あなた自身も死などは存在しないとおっしゃっています。だったらどうして泣くのですか? 肉体は死んでも魂は残ると言いつづけてきたのはあなたですよ。どこに泣く理由があるのですか?
 その一番の弟子は言った、たしかに私は肉体は死んでも魂は残ると言ってきた。だが、私は魂がなくなったと言って泣いているわけではない。亡くなった肉体のために泣いているのだ。師の肉体は美しかったし、あのような人は何百年に一度しか生まれてこない。私は肉体が亡くなったことを嘆いているのであって、魂が失われたと言って泣いているのではない。魂はけっして死なない。だからそのために泣く必要もない。だが、私の師の肉体もまた途轍もなく美しいものだったから、私はそのために泣いている。
 私の光明は逆説的だ。それは論理的なものではないのだから、そうであるのも当然だ。私が瞑想と愛をいっしょに教えつづけているのもそのためだ。愛はマーヤの、表面的な現れの一部だ。瞑想は実在の、神の一部だ。私はその両方を教えつづけている。私が「愛」を語るのは、あなたがたが肉体のなかに深く入ってゆき、そのなかに隠れている魂に気づいてほしいからだ。私が「瞑想」を語るのは、あなたがたが自分の内奥の魂に至ってほしいからだ。そのふたつはいっしょにして、そのあいだにいかなる二分法もつくりださないほうがよい。瞑想を教える人たちはいつも愛に対立してきたし、愛を教える詩人や画家たちはいつも瞑想に反発してきた。
 私はこの世で最大の統合を、愛と瞑想の統合をあなたがたにもたらす。その両方の道に成長してゆきなさいと教える。その両方の次元に入ってゆくがいい――瞑想を通じて内へ、愛を通じて外へと。自分のなかへ深く入ってゆき、はるか彼方の岸へと翔んでゆきなさい。どちらか一方に捕らわれないために。
 愛さない瞑想者は偏った人間になる。彼らの内なる存在は豊かになるが、外側の存在はひどく貧しくなる。瞑想もしない恋人たち――彼らの外側の存在は豊かになるが、内なる存在はひどく貧しくなる。私はあなたがたが両面で、愛と瞑想の両面で豊かになってほしい。

 

 

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