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瞑想と死――その体験は同じ

瞑想と死――その体験は同じ

 Osho, 私は死と瞑想に強いつながり――魅惑と恐怖――を感じます。あなたといっしょに坐っていると、目を閉じて瞑想してもどこか安心できますが、独りだとおびえてしまいます。どういうことなのでしょうか?

 瞑想と死には強いつながりがあるだけでなく、それらはほとんど同じものだ――同じ体験に対するまさにふたつの見方。死はあなたを肉体から、マインドから、あなたではないすべてのものから離す。だが、それはあなたの意志に反して離す。あなたは抵抗している、離されたくない。あなたにはそうするつもりがないのだ。手放しの状態にはない。
 瞑想も、あなたの実存と現実から、あなたではないすべてのものを離す――が、抵抗はない。それだけがちがいだ。抵抗の代わりに、途方もない意欲、憧れ、情熱的な歓迎がある。あなたはそれを望んでいる。心のまさに奥底から欲している。
 その体験は同じだ――偽物と本物の別れ――だが、死における自分の抵抗ゆえに、あなたは無意識になる、昏睡状態に陥る。あなたは死において執着しすぎる。死を起こさせない。すべての扉を、すべての窓を閉じてしまう。生への情欲がその頂点に達する。死ぬという考えそのものが、あなたを根底からおびえさせる。
 だが、死は自然な現象であり、絶対に必要でもある――それは起こらなければならない。葉が黄色く色づかず、落ちなかったら、新しい葉、新鮮な若葉はやって来ない。もし人が古い身体のなかで生きつづけたら、もっと良い家に移ることがない。もっと新鮮で、もっと新しく、新しい始まりのさらなる可能性に満ちて――。おそらく、その人は過去世で取ったルート、砂漠で道に迷ったのと同じルートは取らないだろう。意識の新しい大空のなかへと入ってゆくだろう。

 死はことごとく、終わりと始まりだ。
 終わりに目をやりすぎてはいけない。それは、古い、腐りきった、惨めなライフスタイルの終わりであり、新しい生を始める大いなる機会だ――古い失敗を犯さずに。だが、あなたが生に執着し、それを離そうとしないから――ものごとの本性からして、それは起こるほかないのだが――あなたは無意識に陥る。
 ほとんどすべての人が、光明を得たわずかな人びとを除いて、無意識のうちに死ぬ。だからこそ、彼らは死とはなにかを知らない。その新しい始まり、新しい夜明けを知らない。

 瞑想はあなた自身の探険だ。
 あなたは、自分がなにで成り立っているのか正確に知ろうとして探求している。自分のなかのなにが偽物で、なにが本物なのか。それは偽物から本物へ、死すべきものから不死なるものへ、闇から光への途方もない旅だ。だが、マインドと身体から離れる、そのあなた自身をまさに目撃者として見る地点に来たら、死の体験は同じだ。あなたは死んではいない……瞑想した人は喜びに満ちて死ぬ。死などないことを知っているからだ。死は生への自分の執着のなかにこそあったのだ。

 あなたは言っている、「私は死と瞑想に強いつながりを感じます……」確かにある。この国の太古の教典には、マスターですら死と定義されている。マスターの働き全体、マスターの仕事全体があなた方に瞑想を教えることだからだ。言い換えると、マスターは死ぬことなく死ぬことをあなた方に教えている――。死の体験を通り抜けても、驚いたことに、あなたはまだ生きている。死は通り過ぎていった雲のようなものだった。あなたを引っかくことすらしなかった。それゆえの魅惑、そして恐怖だ。魅惑は、誰もが通り抜けなければならず、これまで何度も通り抜けたことがあるが、無意識になってしまった神秘的な体験を知ることにある。そして、恐怖は――おそらく死は終わりにすぎず、もうひとつ別の始まりではないのだということ……。
 あなたは言っている、「あなたといっしょに坐っていると、どこか安心できます」あなたが私といっしょに坐ろうが、独りで坐ろうが、実際にはなんのちがいもない――。それは、マスターがいるからジャンプしても害はないのだという考え方は、マインドの安心感にすぎない。なにかがおかしくなっても、その面倒を見てくれる誰かがそこにいる。

 瞑想では、なにひとつおかしくならない――絶対に。瞑想がなければ、あらゆることがおかしくなる。
 瞑想がなければ、なにひとつまともにいかない。あなたの全生涯がおかしくなる。あなたは希望のなかでしか生きない。が、あなたの希望はけっして満たされていない。あなたの一生は長い、長い悲劇だ。そして、その原因は、あなたの気づきのなさ、あなたの非瞑想的な質にある。
 瞑想は死のように見える。そして、その体験はまさに同じだ。だが、姿勢とアプローチがちがう。そのちがいがあまりにも広大なために、瞑想は生で、死は夢にすぎないと言えるのだ。
 だが、これが多くの人びとが瞑想し、マスターがそこにいるミステリー・スクールの機能だ。あなたは安全な感じがする。あなたは独りではない。もしなにかがおかしくなったら、すぐに助けてもらえる。だが、なにもおかしくなりはしない。
 だから、私といっしょに坐っている間は瞑想し、自分の孤独のなかでも瞑想するがいい。瞑想は、なにひとつおかしくならないという絶対的な保証のある唯一のものだ。それはあなたの存在をあなた自身に明かすだけだ――。どうしてなにかがおかしくなりうるかね? しかも、あなたはなにもしていない。あなたは事実、あらゆることをするのをやめている。考えること、感じること、することをやめている――あなたのすべての行動に対する終止符だ。意識だけが残る。というのも、それはあなたの行動ではなく、あなただからだ。

 一度自分の実存を味わったら、すべての恐怖が消え、生は全面的に新しい次元になる――もはや平凡ではない、もはや普通ではない。初めてあなたは、自分だけではなく、存在するすべてのものの神々しさと神性を見る。あらゆるものが神秘的になり、この神秘のなかで生きることこそ、至福に満ちて生きる唯一の道だ。この神秘のなかで生きることこそ、祝福が自分に雨のように降り注ぐ下で生きることだ。それぞれの瞬間が、さらにもっと多くの、もっと深く、もっと深遠な祝福をあなたにもたらす――。あなたがそれに値するということではなく、生があり余って、それらを与えるからだ。生は重荷になっている。それを受け容れる人であれば、生は誰とでも分かち合う。
 だが、瞑想は死のようだと考えてはいけない。死はあなたのマインドのなかで良い連想につながらないからだ。それでは、意識を体験する妨げになる――「それは死のようだ」と。事実、それはほんとうの死だ。普通の死はほんとうの死ではない。あなたは再び別の構造に、別の身体に結ばれるからだ。瞑想する者は大いなる死に方をする。二度と再び身体に閉じ込められることはない。

 あるイタリア人が一日仕事に現われなかったので、親方が理由をたずねた。
 「いったいどこに行っていたんだ?」
 「女房のせいでさあ。女房が手押し車を産んだんでさあ」
 「そんなくだらないことを言ってると」と親方は言った、「おまえはクビだぞ」
 「ちょっと、おれ、まちがえたかもしんねえ」とイタリア人は言った。「女房がベッドで乳母車を抱えてたんすよ」
 「上出来じゃねえか、このアホ」と親方は叫んだ、「おまえはクビだ!」
 イタリア人は家に帰り、妻にたずねた。「よお、おまえは昨日、いったいどこが悪かったんだ?」
 「ちゃんと言ったでしょう、私は、流産(Miscarrage)したんだって」
 「そうだったよな、分かってたんだ、なんか車が付いてたってのはよ……」

 あなたのなかは誤解に次ぐ誤解だ。いくつかの誤解はひどい害を及ぼす。マインドのなかで瞑想と死を同一視してしまうことは、自分になしうる最大の害のひとつだ。まちがってはいないが、死の意味からの連想がひどいために、あなたは瞑想に入るのを妨げられる。
 私が、死の連想が嘆きではなく祝祭にもっともっとつながるようにしたい理由のひとつがそこにある。ただの終止符、終わりではなく、ひとつの変化、新しい始まりという連想にもっともっとつながるように。私は連想を変えたいのだ。それが、瞑想的資質のための道をきれいにする。
 そして、もしあなたがここで私といっしょに沈黙と瞑想を感じていたら――まだ生きていて、これまで以上に生きていたら――怖がることはない。それをさまざまな状況のなかで試してみるがいい。そうすれば、それはつねに大いなる治癒の源泉、大いなる安泰の源泉、大いなる知恵の源泉、生とその神秘への大いなる洞察の源泉だということが分かる。

 

Osho, The Golden Future You