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子どもたちに敬意を払いなさい

 親が子どもたちに対して、これほど残酷なのはなぜなのですか? 親に責任を感じさせることに意味はあるでしょうか? そして、同じ過ちを繰り返さないで済むようにするにはどうすればいいのですか?

 親が子どもたちに対して残酷なのは、子どもたちに対して、ある種の投資をしているからだ。親には子どもたちを通して実現したがっている野心がある。だからこそ彼らは残酷になる――彼らは子どもたちを利用したがっている。誰かを利用したいと思った瞬間、あなたは必ず残酷になる。誰かを手段として利用するという考えそのものに、すでに残酷な要素が入り込んでいる。暴力が入り込んでいる。

 決して他の誰かを手段として扱ってはならない――誰ひとりをとっても、その人自身が目的だからだ。

 親が残酷なのは、彼らなりの考え方を持っているからだ。彼らは子どもたちにこうなってほしい、ああなってほしいと願う。親は子どもたちが裕福で、有名になり尊敬を受けるようになってほしい。親は子どもたちに自分たちの満たされなかったエゴを満たしてもらいたいと願う。子どもたちは親の追求の手段そのものになってしまう。

 父親は裕福になりたかったが、思うようにならなかった。そして今や、死が近づきつつある。遅かれ早かれ、彼は生から切り離される。彼は欲求不満を感じる。まだ到達していないのに、まだ探し求め、追求している最中なのに……もう死がやってこようとしている――これはあまりにも不当なことに思われる。
 父親は、息子にその課題を引き継いでほしいと願う。息子は父親である彼を体現するものだからだ。息子は父親の血であり、投影であり、父親の一部であって――父親の不死を約束するものだからだ。
 魂のことなど誰に分かる? それについては誰にも定義できない。人びとは信仰を持つが、信仰とは恐れから生じるものだ。そして、内側の深い部分には疑いが残っている。

 どんな信仰も、その中には疑いが含まれている。疑いなくしては、いかなる信仰もありえない。その疑いを抑圧するために私たちは信仰を作り出す。だが、その疑いは、りんごの中の虫のように、絶えず心を蝕み続ける。それはあなたを内側から蝕み、あなたを内側から腐敗させる。
 神について誰が知っていよう?
 魂について誰が知っていよう?
 そんなものは存在しないのかもしれない。人間が知っている唯一の不死は、子どもを通じてのものだ――それなら確かだ。父親に分かっているのは、「自分は息子の中に生き続ける。じきに自分は死んで、葬られるが息子はあとに残る。だが自分の願望はいまだに叶えられていない」ということだ。
 父親は、その願望を息子に押しつけ、満たされなかった願望を息子の意識に植えつける。たとえば、こんな具合に――「お前は叶えられなかった私の願望を満たさなければならない。お前がそれを叶えてくれれば、私は心安らかになれる。叶えてくれれば、お前は父親に対する恩義を返したことになる。だが、それを満たさなけれぱ、お前は私を裏切ったことになる」

 ここから残酷な要素が入り込む。こうなると、父親は自分の願望に合うように、子どもたちを型にはめようとし始めている。父親は、子どもにはその子自身の魂があることを忘れている。その子自身の個性があり、おのずと開けてゆく彼自身の内側の成長があることを忘れている。父親は自分の考えを押しつける。彼は子どもを破壊し始める。

 父親は息子を愛していると思っている。だが彼が愛しているのは自分の野心だ。彼が息子を愛するのは、ひとつには、息子が道具になってくれるからだ。こうして息子は手段となる。これこそ残酷さの何たるかだ。

 あなたは私にこう尋ねている。親が子どもたちに対して、これほど残酷なのはどうしてなのかと。親たちはそうならざるを得ない。なぜなら彼らには自分たちの考えがあり野心があり、願望があるからだ。それは満たされぬままになっている。親たちはそれを叶えたいと願っている。自分の子どもたちを通して生き続けたいと願っている。当然の成りゆきとして、彼らは子どもたちを刈り込み、切断し、型にはめ、特定のパターンを与えるようになる。こうして子どもたちは破壊される。

 こうした破壊は、必然的に起こる――地上に、愛そのもののために愛する新しい人類が生まれない限り……新しい親の在り方が考えだされない限り、こうした破壊は、必然的に起こる。あなたは、子どもを愛するにも、愛することの純粋な喜びのために愛する。子どもを神からの贈り物として愛する。あなたが子どもを愛するのは、神がそれほどにもあなたに、大きな至福をもたらしてくれたからだ。あなたが子どもを愛するのは、子どもが生そのものであり、あなたの家、あなたの存在のもとに身を落ちつけた、未知なる世界からの客人だからだ。あなたを巣として選んでくれたからだ。あなたは感謝の気持ちをもって子どもを愛する。

 本当に子どもを愛していれば、あなたは子どもに自分の考えを与えたりはしない。愛は、いかなる考えも、いかなるイデオロギーも与えない。愛は自由を与える。

 あなたは子どもを型にはめようとしなくなる。子どもがミュージシャンになりたがったとしても、子どもの気持ちに水を差そうとしなくなる。しかも、あなたには十分すぎるほどよく分かっている。ミュージシャンなど正業とは言えないし、将来、貧しい生活を送ることになる。決して大金持ちにはなるまい。決してヘンリー・フォードのような人物にもなるまい。あるいは、子どもが詩人になりたがれば、あなたには我が子がいつまでも乞食のままだろうと想像がつく。だが、そう分かっていても、子どもに敬意を払っているがゆえに、あなたはそれを受け入れる。

 愛はいつでも敬意に満ちている。愛とは尊敬することだ。

 敬意を払いなさい! 子どもの選択が、その子を通して成就されることを求めている神の願望であるなら、そうさせてやったらいい。あなたは干渉せず、立ちはだかって邪魔することもない。こんな説教をすることもない。
 「これは間違っている。私のほうが人生をよく知ってるし、経験も積んでいる。お前など人生を知りもしないし、人生経験もゼロだ。私はお金の有難みを知っているが、詩ではお金を稼ぐことなんかできはしない。それより政治家になりなさい。少なくとも技術者か医者になるんだ」

 だが、子どもはきこりになりたがる。あるいは、靴磨きになりたがり、さもなければ、ただの浮浪者になりたがる。いずれにせよ、子どもは生を楽しみたがっている……木陰で涼み、砂浜で寝そべり、世界を放浪したい。愛していれば、あなたは干渉しない。あなたは、ただこう言う。
 「いいだろう、私の祝福を受けて自分の道を行くがいい。お前自身の真実を探し求めなさい。何であれ、お前の好きなものになるがいい。私はお前の行く手をさえぎったり、私自身の経験を持ち出して、お前を困らせたりはしない。私の経験は私自身のものであり、お前は私ではないのだから、お前は私を通してやってきた。だが、お前は私ではない。お前は私のコピーではないし、私のコピーであるべきでもない。お前は私の真似をすべきではない。私は私自身の人生を生きてきた。お前は自分自身の人生を生きればいい。私自身にできなかった経験を、お前に肩代わりさせて苦しめるつもりはない。実現できなかった私の願望を、お前に押しつけて苦しめるつもりはない。お前を身軽なままにしておいてあげよう。それだけでなく、お前の力添えをしてあげよう。何であれ自分がなりたいものになりなさい。私の祝福と援助を惜しみなく与えよう」

 子どもたちはあなたを通してやってくる。だが、彼らは神に属している、全体に属している。子どもたちを所有してはならない。子どもたちが自分に属するなどという考えを抱かないことだ。どうして、あなたに属すことなどあり得よう?

 子どもは神に属するというヴィジョンが、ひとたび、あなたの中に芽生えたら、もう残酷さの入り込む余地はない。

 あなたはこう尋ねている。親が子どもたちに対して、これほど残酷なのはなぜなのか? 親に責任を感じさせることに意味はあるのかと。

 それは無駄なことだ。私に言わせれば、親に責任を感じさせることには何の意味もない。なぜなら彼らもまた自分の親のために苦しみ、その親もまた……と代々そんなことが繰り返されてきたからだ。理解することが必要だ。罪を着せる相手を見つけたところで仕方がない。あなたはこう言って済ますことはできない。
 「私が駄目になったのは、親が私を駄目にしたからだ、私に何ができるというんだ?」
 親たちが破壊的なことは、私にも分かっているが、油断なく醒めていることができれば、あなたは、両親があなたのまわりにつくり出し張りめぐらしたパターンから抜け出すことができる。

 あなたにはいつでも、自分のまわりに仕掛けられた、どんな罠からでも抜け出すだけの力がある。あなたの自由はこれまでずっと封じ込められたままだったかもしれない。だが、自由はあくまでも内在的なものであり、完全に破壊されてしまうことなどあり得ない。自由は、いつでもそこにあり、あなたは、再びそれを見いだすことができる。おそらく、それは困難で努力が必要で、骨の折れる仕事かもしれないが、不可能なことではない。

 責任を投げ出してしまうだけでは、何もならない。そんなことをすれば、あなたは、ただ無責任になってしまうだけだ。これこそフロイト派の精神分析が人びとにしてきたことであり、彼らの為した害悪だった。精神分析家のところに行くと、彼はあなたをこの上なくいい気分にさせてくれる。
 「あなたに何ができるというのです? あなたの母親はこんなふうでした、父親はこんなふうでした。あなたの育てられ方は間違っていた。だからこそ、あなたはこういった問題で悩んでいる」
 あなたは気分がいい。あなたには何の責任もないからだ。

 キリスト教は二千年もの間、あなたに責任を感じさせてきた。あなたに罪悪感を感じさせ、自分は罪人だと思わせてきた。今度は精神分析が、その正反対の極に走る。精神分析は、ただただあなたは罪人ではない。罪悪感を感じる必要はない――あなたは完全にオーケーなのだと言う。あなたは罪悪感も罪のことも、すっかり忘れてしまう。責任があるのは他の人なのだから!

 キリスト教は、罪悪感という考えをつくり出すことによって、大いに害を為してきた。今度は精神分析が、無責任という考えをつくり出して、その正反対の立場から害を為している。

 あなたは次のことを覚えておかなければならない。親があれこれするのは、そうするように彼ら自身が教えられたからだ。彼らの両親が、そう教えてきたからだ。その両親もまた、彼ら自身の両親に育てられた。その両親とて天から降って来たわけではなかった。だとしたら、さかのぼって、責任を投げ返したところで何になる? そんなことをしても何もならない。何も問題を解決する役には立たない。そうしたところで、あなたが罪悪感から解放されることにしか役立たない。

 それはそれで結構なことだし、好ましい側面だ。精神分析の有益な側面は、それが、あなたを罪悪感から解放してくれることにある。そして有害な側面とは、精神分析があなたをそこに置き去りにしてしまうことだ。精神分析は、あなたに責任を感じさせない。

 罪悪感を感じることと責任を感じることとは、まったく別のことだ。私があなたに教えるのは、責任を引き受けることだ。私が責任と言うとき、何を指しているかだが。あなたは、自分の両親に対しては責任がない。あなたは、いかなる神に対しても責任がない。いかなる聖職者に対しても責任がない。あなたに責任があるのは自分の内なる実存に対してだ。

 責任とは自由のことだ。責任とは次のような考え方のことだ。
 「私は自分自身の人生を自分の手に取り戻さなければならない。もうたくさんだ! 確かに私の両親は害になることをしてきた――だが何であれ、彼らにできるだけのことをしてきたのだ。彼らがしてきたことは、善悪こもごもだった。だが、今や私は一人前の人間になった。私はあらゆることを自分の手に引き受け、自分の中に自然に起こってくるやり方で生き始める。今から私は、自分の人生に全精力を傾けなければならない」
 そう感じた瞬間、あなたは自分の中に非常に力強いものが湧き起こってくるのを感じる。

 罪悪感は自分を弱々しい存在と感じさせるが、責任感は力強い自分を感じさせてくれる。責任を負うことによって。あなたは熱い心と自信と信頼を取り戻すことができる。

 それがサニヤスの意味だ。サニヤスは、あなたを、キリスト教やヒンドゥー教、ジャイナ教やイスラム教から自由にしようとする。サニヤスはまた、あなたをフロイトの精神分析の類からも自由にしようとする。サニヤスとは、あなたが他のどの声に従うのでもなく、自分の内奥の声に従って、あなた自身の生を真撃に生きることを目指すものだ。聖書に従うのでも、コーランに従うのでもない。たとえコーランの中で、神が特定の話し方で語ったとしても、それは、とくにイスラム教徒に向けて語られたものであり、あなたに向けて語られたものではない。コーランは、神がモハメッドと交わした対話であり、神があなたと交わした対話ではない。あなたは自分自身の神との対話を見いださなければならない。あなたは自分自身のコーランを見つけなければならない!

 たとえイエスが、あの美しい言葉を語ったとしても、それはイエスと全体性との対話から生まれたものだ。もうそれを復唱し続けることはない。イエスの言葉は、あなたには無意味だ。それは、あなたの中に生まれたものではなく、あなたの一部ではない! それは造花のようなものだ。プラスチックの薔薇の花をこしらえて、薔薇の茂みにつるしておく――ちょうどそれと同じようなものだ――それは薔薇の茂みそのものから咲き出た薔薇の花と同じではない。

 あなたは人の目を欺くこともできる。知らない人は騙されるかもしれない。人びとにはたくさんの美しい花が、薔薇の茂みに咲いているように見えるのに、それがすべてプラスチックの花だということがあるかもしれない。だが、あなたにも薔薇の茂みは騙せない。自分自身を騙すことはできない。あなたはイエスの言葉を繰り返すことはできる。だが、その言葉は神によってあなたの耳に発せられたものではない。その言葉はあなたに向けて語られたものではない。あなたは他の人に宛てられた手紙を読んでいるようなものだ!

 それは不法行為だ。あなたはその封筒を開けるべきではない。あなたは自分自身の全体との関わりを探求し、見いださなければならない。

 その関わりを私は応答(リスポンス)する能力(アビリティ)、すなわち責任(リスポンスィビリティ)と呼ぶ。応答とは、自発的に関わる能力だ。応答とは、誰に従うのでもなく、自分のハートに従って、生の状況に応える能力だ。自分がそんなふうに生きていると感じ始めたとき、あなたは、ひとりの個人となる。そのとき、あなたは自分自身の足で立っている。

 そして、覚えておきなさい。あなたが自分の足で立ったとき初めて、いつの日か足なしで歩き、翼なしで飛ぶことを望めるようになる。そうならなければ、そんな日は望みようがない。

 そして、あなたはこう尋ねている。同じ過ちを繰り返さないで済むようにするには、どうすればいいのかと。

 ただ、こういった過ちを理解しようとしなさい。なぜ、こういった過ちが犯されるのか、その核心を見抜いたら、あなたはもう同じ過ちを犯さない。真実を見抜くことが変容につながる。真実には人を解放する力がある。

 なぜ、あなたの両親があなたを破壊してきたのか、その核心を理解するだけでいい。彼らの願望そのものは良いものだったが、彼らの意識は十分でなかった。彼らは、意識的な人びとではなかったからだ。彼らは、あなたに幸せになってほしかった。言うまでもなく、この上なく幸せになってほしかったのだ。だからこそ、彼らはあなたに、裕福で人の尊敬を受ける人物になってほしいと願った。

 だからこそ、彼らはあなたの願望をねじ曲げ、切り詰め、あなたを型にはめ、組み替え、特定の人格を与え、あれこれ抑圧し、多くのことを強制したりもした。彼らは何であれ、できる限りのことをした。彼らの願いは正しい。彼らは、あなたに幸せになってほしかった。ただ、彼らは自分たちが何をしているかに気づいていなかった。彼ら自身が幸せの何たるかを、決して知らなかった。彼らは不幸な人びとだった。そして無意識だった。

 彼らの願望は、もっともなものだった――彼らに腹を立ててはいけない。彼らは何であれ、できる限りのことをしたのだ。彼らを憐れみこそすれ、腹を立ててはいけない。怒りを感じてはいけない! 彼らにも、どうしようもなかったのだから!

 彼らは、ある罠にとらわれていた。幸せの何たるかを知ったためしもなく、幸せな人とは金持ちのことだという観念を持っていた。彼らは生涯を通して金のために働いていた。全生涯を金を稼ぐことで空費した。だが依然として、金が幸福をもたらすという、馬鹿げた考え方を捨てられずにいる。そして彼らは、あなたの存在までも毒そうとした。彼らには、あなたを毒すつもりなどなかった――彼らにすれば、あなたに万能の秘薬を注いでいるつもりだったのだ。彼らの夢は良いものだったし、願望も良いものだったが、彼ら自身が不幸で、無意識な人びとだった――だからこそ、彼らはあなたを損なうことになった。

 そろそろ目を覚ましなさい! 幸福を捜し求めなさい! どうしたら幸せになれるか見つけだしなさい! 瞑想し、祈り、愛しなさい! 情熱を傾けて、強烈に生きなさい! 幸福の何たるかを知れば、あなたは誰に対しても残酷な態度はとらない。そんなことは不可能だ。生を少しでも味わったら、誰に対しても決して破壊的な態度などとれない。どうして自分の子どもたちに対して破壊的でなどあり得るかね? あなたは、誰に対しても決して破壊的ではあり得ない。

 意識を持つようになれば、それだけで十分だ。「同じ過ちを繰り返さないで済むようにするにはどうすればいいか?」などと尋ねる必要はない。もし、あなたが不幸で、意識していなければ、あなたは同じ過ちを繰り返さざるを得ない。必ず同じ過ちを犯すことになる! それは必然だ。あなたは同じ過ちを繰り返すよう運命づけられている。

 だから私には、どうすればそれを避けられるかという手がかりを与えることはできない――私にできるのは、あなたにある洞察を与えることだけだ。その洞察とはこういうものだ。あなたの両親は不幸だった――どうか、あなたは幸せになりなさい! あなたの両親は無意識だった――あなたは意識的になりなさい! そしてこのふたつ――意識的であることと幸福――は、実は別のものではなく、同じコインの裏表だ。

 まず意識的になることから始めなさい。そうすれば、あなたは幸せになれる! そして、幸せな人間は暴力的にはならない。そして、いつでも覚えておきなさい。子どもたちは大人とは違う。子どもたちに大人と同じことを望むべきではない。彼らは子どもなのだから! 彼らには、まったく違ったものの見方と考え方がある。大人の態度を彼らに強制しはじめるべきではない。子どもを子どものままにしておいてやりなさい。二度とめぐってくることのない子ども時代なのだから。誰でも失ってしまったあとで、子ども時代を懐かしく思い返す。誰でも子ども時代は、楽園のような日々だったと感じる。彼らの邪魔をしてはならない。ときには子どもたちのものの見方が、あなたには受け入れがたいこともある。だがそれは、あなた自身が子どものものの見方を忘れてしまったからだ! 子どもは一生懸命木に登ろうとする。そんなとき、あなたはどうするだろうか? あなたはすぐに心配になる――子どもが木から落ちるのではないか? 足を折るのではないか? 何かまずいことが起こるのでは? そして、あなたは心配になって駆け寄り、子どもを制止する。木に登ることがどんなに楽しいことか分かっていれば、あなたは子どもが木登りを覚える手助けをしてやるだろう! 木登りを教えてくれる学校に、子どもを通わせていることだろう。子どもを制止することはなかっただろう。あなたの心配はもっともなことだ――それは愛の表現だ。確かに子どもは木から落ちるかもしれない。だが子どもを木に登らせないことは、子どもの成長を止めてしまうことだ。

 木に登ることにはとても重要な何かがある。木登りをしたことが一度もなければ、その子はある意味で貧しいままになってしまう。ある種の豊かさを逃すことになる。それは生涯の損失だ。あなたはその子からある美しい経験を奪ったことになる。そして実際に木に登る以外に、その経験の豊かさを知る方法はない! 大きくなってしまうと、木に登るのはもっと難しくなる。そんなことは馬鹿げていてくだらない、と思うようになるからだ。

 子どもを木に登らせておきなさい。もし心配なら、子どもを手助けしなさい。ついていて、教えてやりなさい。子どもと一緒にあなたも木に登ったらいい! 子どもが落ちないように、彼が木登りを覚える手助けをしてやりなさい。それにときどき木から落ちたところで、さほど悪いことではない。経験しないままに終わるより、まだましだ……子どもは雨の中に飛び出して行きたがる。雨にうたれて街中を駆けまわりたがる。すると、あなたは心配になる。子どもが風邪をひくかもしれない。肺炎か何かになるかもしれない――そして、あなたの心配はもっともだ! だが、それなら子どもが風邪に対する抵抗力をつけるよう何か手を打ちなさい。子どもを医者に連れていきなさい。子どもにどんなビタミンを与えれば、雨の中を走りまわって踊るのを楽しんでも、子どもが風邪を引いたり肺炎になったりする心配をせずにいられるか、医者に訊くといい。だが、子どもを止めてはいけない。雨が降っているとき通りに飛び出して踊るのは、とても楽しいことだ。その歓びを逃すのは、何か貴重なものを逃すことだ。

 もし幸福を知っていて、醒めていれば、子どもの立場に立って、子どもがどう感じているか感じることができる。

 子どもが飛び跳ね、踊り、叫んだり、金切り声をあげたりしていても、あなたは新聞を読んでいる。くだらない新聞に向かっている。しかもあなたは、そこに何が書いてあるか知っている――それはいつも変わりばえしない。それでもなお、あなたは邪魔をされたと感じる。新聞の中には何もありはしない。それでも、あなたは邪魔をされたと感じる。あなたは子どもを制止する。
 「大きな声で叫ぶんじゃない! お父さんの邪魔をするんじゃない! お父さんは大事なことをしている――新聞を読んでいるのだから!」
 そしてあなたは、そのほとばしるエネルギーを止めてしまう。その流れを止めてしまう――あなたは、その輝きを止めてしまう。生を止めてしまう。あなたは暴力的になっている。

 そして、私は子どもがいつでもあなたの邪魔をすることを、許されるべきだとは言っていない。だが、100回のうち90回までは、子どもたちは不必要に妨げられる。そして、その90回に関して子どものすることを妨げずにおけば、子どもは理解してくれる。

 あなたが子どもを理解すれば、子どももあなたを理解する――子どもは非常に敏感に応えてくれる。決して妨げられずにいられると知っていれば、あなたが「今はやってることがある、お願いだから……」とひとこと言うだけで、子どもは分かってくれる。いつも目を光らせていて、自分を叱りつける親の言葉ではなく、何でもさせておいてくれる親の言葉だということが分かる。子どもは、違った見方をするようになる。

 「さあ、みんな、静かにして」先生が言った。「ピンの落ちる音が聞こえるぐらい静かにして」教室は深い静寂に包まれた。約2分後、後ろの席から苦しそうな叫びが上がった。「お願いですから、ピンを落としてください」

 ある小さな少年が、はじめて学校に行った日のことだった。付き添っていた母親が帰ってしまったとたんに、少年はわぁわぁ泣きだした。担任の先生と女の校長先生が、なだめたりすかしたりしたが、少年はずっと泣き続け、ついに昼ご飯の時間が近づいてくるに及んで、担任の先生は堪忍袋の尾を切らした。
 「いい加減に、お黙りなさい! もうお昼の時間よ。それにお昼を食べて、2、3時間もしたら、お家に帰ってまた、お母さんに会えるでしょ」そのとたん、少年は泣きやんだ。
 「そうなの? 僕、16歳になるまでずっとここにいなければならないのかと思った!」

 子どもには、子どもなりの見方や理解の仕方、流儀というものがある。それを理解しようとしてみなさい。理解ある人は必ず、自分と子どもの間に、深い調和が生まれることに気づく。自分の考え方に閉じこられたまま、相手の考え方を受け入れることができないのは、愚かで無意識な、理解力のない人びとだ。

 子どもたちは、この世界に新鮮さをもたらす。

 子どもたちは、新たに生み出された意識だ。
 子どもたちは、神から生に通じている新しい入り口だ。

 敬意を払いなさい、理解しようとしなさい。

 そして、幸せで注意深くありさえすれば、どうしたら同じ過ちを繰り返さずに済むかなどと、思いわずらう必要はない――あなたはそんな間違いを犯すことはない。だが、あなたは自分の両親とはまったく違った存在にならなければならない。意識が、その違いをもたらす。

 

 

 

 

 

 

 

 

Osho, Walk Without Feet,Fly Without Wings And Think Without Mind, #2
邦訳本として『ニューチャイルド』(OEJ刊)