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最大の贈り物

 親父が心臓発作を起こしたので、帰らなければなりません。きのうの夜、あるサニヤシンから電報を受け取ったんですが、それに「すぐ帰れ、かなりの重態だ」ということが書いてありました。感じたのは、自分がずっと父親と一緒にいないことにひっかかっているということです。

 ふむ、ふむ……行ってもし彼が何かできるようだったら、ナーダブラーマ・ハミング瞑想法を見せてあげなさい。まずあなたが彼のかたわらに座ってやって見せれば、彼にもわかるだろう。そうしたら、あなたがやって、今度は彼も一緒にやればいい。それは心臓にもいいだろう。そして、それは肉体以上の何かの役に立つに違いない。
 おそらくいまなら、彼は瞑想に興味をもつようになるだろう。心臓発作の後はその可能性が強い。死が扉を叩いて、その人は死の何かを味わったからだ。その人はもう二度と同じ人間ではあり得ない。古い価値観――古い生活、競争、市場、お金、権力、地位、政治――すべて無意味に見える。一度、少しでも死を味わってしまったら、こんなものはすべて空しいのだということがわかるものだ。それには何ひとつ本質的な価値などない。人は生れてはじめて意味を求めはじめる。
 だから、すぐに帰りなさい。ん? 数日の間、彼はとても感じやすい状態にいるだろう。だが、もし遅すぎて2、3週間たってしまったら、彼は心臓発作のことなどすべて忘れ、またしても相も変わらぬ同じ日常にのめり込みはじめてしまうに違いない。

 死は――たとえ一瞥であっても、たとえ自分が死ぬことがあり得るのだという観念だけでも――その人の存在全体を変容させる。宗教というものが姿を現したのは死のおかげなのだ。もし世の中に死がなかったら、宗教などというものが存在する可能性はなかっただろう。そして、いまでも宗教というのは、死というものにごくごく醒めた人たちにとってしか存在しないのだ。動物たちは死に気づいていない。だから、樹々に宗教はないし、動物たちにも宗教はない。特に物質的な人間には、普通の人たちよりも動物的なところが残っている。そういう人はこのいわゆる生の文脈でしかものが考えられず、けっして何ひとつ死のことなど考えない。実際のところ、彼は、死のことばかり考えている連中などちょっと倒錯している、不健全だ、病気だ、病的だと言い張るだろう。彼は、死という事実を否定しようとしているからだ。彼は死を恐れている。誰でも、自分に死を思い出させるようなものを持ってくる人はみな敵のように見える。物質的な文化、物質的な社会は死を避けようとする。そのために実にたくさんのトリックが考案されてきた。西洋ではひとりの人間が死ぬと、新しい服を着せたり、顔に化粧を施したりする。もしそれが女の人だと、口紅も、眉墨も、何から何まで塗りたくられる。あなた方は、みんなその人が死んでいないように感じさせようとする。ビューティフルな柩や花束――これはまさに逃避だ。あなた方は、誰か一瞬前には生きていた人がもう生きていないということに直面したがらない。
 あなた方は死をそのありのままに見たがらない。死の上にまで仮面をかぶせる。人びとは生きている間もマスクをかぶって生きているが、もっとひどいことに、死んでもまだ仮面をかぶっている。それはひとつのトリック、自分自身の内奥無比なる恐怖に面と向かわないようにするための技術なのだ。その上、誰も彼も「故人は天国に行かれました。神の世界へ行かれました。極楽に行って、とても幸せでしょう」などと言う。

 こんな話しを読んでいた。メヤーズというある超心理学者が、死について考えた。誰か身近な人間――親戚や妻や夫――が死んだときに人間がどう感じるのだろうか? そこで、彼は大勢の人たちに問い合わせてみた。ある日、彼がパーティーに招かれて行くと、つい2、3日前に娘を亡くしたというとても裕福な婦人に隣り合わせた。
 そこで、彼は尋ねた。「どうお感じになりますか? お嬢さんはいまどこにいらっしゃいますか?」
 「もちろん」その婦人は言う。「あの娘は神とともにいて、そこで至福に包まれて幸せにしています。あの娘は天国にいるのです。けれども、どうかそんな気の重くなるような話題を持ち出さないでくださいな」
 さあ、これは……その二律脊反、その分裂した心(マインド)がわかるだろう。「彼女は幸せです。天国にいて、神に至福に包まれて幸せにしています」というのと、「そんな気の重くなるような話題を持ち出さないで下さい」というのと! もしその娘が本当に神とともにいて幸せにしているのだったら、なぜそれが気の重くなるような話題なのか? そして、もしそれが気の重くなるような話題なのだとしたら、なぜそれを、彼女が神とともにいて幸せなどと言って隠し続けようとするのか?

 そうやって人間は死を避けようとしてきた。それは宗教を避ける方法でもある。なぜならば、宗教というのは死との遭遇以外の何ものでもないからだ。それは死とのデート、死とのロマンスなのだ。それは死への冒険なのだ。宗教は死と直面することを求める。それはひとつの事実だ。それを避けたところで何にもならない。宗教的な心(マインド)はそれと直面し、それが何であれ、その中に深くはいって行こうとする。その真実は知られねばならない。そして、その探求の中で、瞑想や祈りやヨーガが起こってきたのだ。
 だから、誰かがひどい病気にかかって重態になるようなことがあったら、その機会をのがさないこと。ある雲間が晴れている。そして、そうした瞬間こそ、その人間に一条の光線を見ることができるのだ。その人がそれを見るのを助けるがいい。そしてもし、あなたがその人を愛しているならば、それこそあなたがその人にたずさえて行くことのできる最大の贈り物にほかならない。

 お父さんのところに帰りなさい。心配することはない。もし心配していたら、お父さんに力を貸すことはできないだろうから――。悲しい気持ちにならないこと。悲しくなることなど何もないのだから。死というのはひとつの事実だ。それは今日か明日か、あるいはあさってか、必ず起こることになっている。それは起こらずには済まないのだ。それを受け容れなさい。ただ私からのメッセージを届けに行くだけでいい……。
 ただ彼にこう言いなさい。「いまこそひとつの違った世界と違った次元、違った生に足を踏み入れるにふさわしい瞬間です。あなたはこの世界を生きてきて、やっと死が、こんなものはただ夢のようなものにすぎないということ、いつなんどきでも自分は連れ去られてしまうのだということを感じ、そして見抜く機会を与えてくれたのです。あなたはもう少しで連れ去られるところでした。でも、あなたはまだ生きています。もう人生を昔ながらの日常についやすことはありません。今度は自分に与えられた日々を、何か有益なものに使いなさい。自分を死の向こうへ導いてくれるものを見つけるのです」、と。
 そしてあなたは瞑想をしなさい。それはあなた次第だ。多くのことがあなたに、あなたがどう振舞うかにかかっている。もしあなたが緊張せず、心配しなければ、お父さんにもあなたの静寂を感じることができるだろう。お父さんにもあなたの穏やかさの中心が感じ取れるだろう……。ただ、彼の傍に坐って私を思い出すだけでいい。そして、ただ静かに坐っているのだ。お父さんにも、あなたが自分の息子であるだけではないことが感じられるだろう。何かそれ以上のものがあなたに起こっている。彼にもあなたがひとつのメッセージをたずさえて来たということが感じ取れるだろう。生まれてはじめて、あなたはお父さんとコミュニケートすることができるに違いない。そして、そのことはあなたにも何かの根を与えてくれるだろう。なぜなら、自分自身の両親との和解というのはなくてはならないものだからだ。さもなければ、何かがひっかかりとして残ってしまう。
 それをひとつの完結した円にするがいい。彼はあなたに生を与えてくれた。あなたは彼にもうひとつの生というメッセージをもたらす。彼はあなたに誕生を与えてくれた。今度は彼が生まれ変わることのできるように、瞑想する助けになってあげなさい。そうすれば、あなたは借りを返したことになる。

 

 

 

 

 

『生命の歓喜』(めるくまーる刊)より抜粋