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沈黙という考えは、誰もわくわくさせない

 Osho,もう何年も、私は自分を理解するためにグループ巡りをしてきました。私はあまりにも不幸で、その苦悩を和らげてくれる可能性のあるものなら、どんなこともいといませんでした。今、あなたは、私が自分の不幸を後にするための手段として瞑想を提示していらしゃいます。すると、私ができるのは抵抗だけなのです。じっと静かにしているという考えは、私をわくわくさせません。かえって私を脅かし、結局私はより不安になっています。私にはこれが理解できません。どうか瞑想に対するこの抵抗を説明していただけないでしょうか?

 静寂と沈黙という考えは、誰をもわくわくさせない。これはあなたの個人的な問題ではない。これは人間の心そのものの問題だ。というのも、じっとしているということ、沈黙しているということは、ノーマインドの状態にいることだからだ。マインドは静かにしていることはできない。それはたえず考え、心配していることが必要だ。マインドの機能は自転車のようなものだ。ペダルを踏みつづければ、それは継続する。ペダルを踏むのを止めたとたん、倒れることになる。マインドはまさに自転車のように二輪の乗り物だ。そしてあなたたちの思考とは、たえずペダルを踏むことだ。
 ときたまほんのちょっと静かになっただけで人はたちまち、「私はなぜ沈黙しているんだ?」と心配し始める。どんなことでも心配事、考え事を生み出すことになる。なぜならマインドはたったひとつの方法でしか存在しえないからだ――走ることで、つねに何かの後を追いかけるか、あるいは何かから逃げるか、とにかくつねに走ることでだ。走ることのなかにマインドがある。止まった瞬間、マインドは消える。
 今の今は、あなたはマインドに自己同化している。あなたは自分がマインドだと思っている。そこから恐怖がやって来る。あなたがマインドに自己同化しているのであれば、当然、マインドが止まったらあなたは終わりになる、もはや存在しなくなる。しかもあなたは、マインドを超えたものを何も知らない。
 じつは、あなたはマインドではない。あなたはマインドを超えた何かだ。だからこそ、自分がマインドではないとあなたが初めて知るためには、マインドが停止することが絶対に必要なのだ――というのはそのときもなお、あなたはそこに存在しているからだ。マインドは消えた、が、あなたはまだそこにいる――しかももっと大いなる喜びに満ちて、より大いなる輝き、より大いなる光、より大いなる意識、より大いなる存在に満ちて。マインドは偽っていた。そしてあなたたちはその罠にかかっていたのだ。
 あなたが理解しなければならないことは、その自己同化の過程だ――いかにして人は、実際にはそうでない何かに自分を自己同化できるのか……。
 マスターの働きはただ、弟子に自分が誰であるかを見せ、彼が信じつづけていることが真実ではないと理解させることにすぎない。
 あなたたちの心は自然によって生み出されたものではない。つねにその区別の保持に努めなさい。あなたの大脳は自然によって生み出された。あなたの大脳は肉体に属するメカニズムだ。だがあなたのマインドは、あなたが住む社会のなかで生み出されるものだ――宗教によって、教会によって、あなたの両親が従うイデオロギーによって、あなたが育てられた教育体系によって、あらゆるたぐいのことによって創られたものだ。だからこそキリスト教徒のマインドがあり、ヒンドゥ教徒のマインドがあり、イスラム教徒のマインドがあり、共産主義者のマインドがある。大脳は自然なものだが、マインドは創られた現象だ……。
 瞑想とは、あなたは思考ではないということを気づかせるための方法にすぎない。そしてそれはあなたに途方もない統御力を与える。そうなるとあなたは、自分のマインドにとって何が正しく、また自分のマインドにとって何が正しくないかを選ぶことができる。なぜなら、あなたは離れていて、観察者、見張りになっているからだ。そうなるとあなたはそれほどマインドに執着しない。そしてそれがあなたの恐怖だ。
 あなたたちは完全に自分を忘れてしまっている。あなたたちは思考になってしまった。その同化は完全だ。
 だから私が、「静かになりなさい。じっとしていなさい。油断なく、自分の思考のプロセスを見守っていなさい」と言うと、あなたたちはフリーク・アウトする。あなたたちは恐ろしくなる。それは死のように見える。ある意味ではあなたは正しいのだが、それはあなたの死ではない。それはあなたの条件づけの死だ。その条件づけの組み合わさったものがあなたの心と呼ばれる。そしてひとたびあなたがその区別を明瞭に見ることができたら――自分がマインドとは別のものであるということ、そしてマインドは大脳とは別のものであるということを見ることができたら――それはただちに起こる……同時にだ。あなたが思考過程から引き下がるにつれて、あなたには突然その思考が中間にあること、その両側に大脳と意識があることがわかる。
 大脳とは、たんなるメカニズムにすぎない。それをどう扱おうとするにせよ、そのように扱うことができる。思考こそが問題なのだ。なぜなら、それは他人があなたに作ったものだからだ。それはあなたではない。それはあなたのものですらない。それはすべて借りものだ……。
 意識が思考に自己同化してしまったら、大脳にはどうすることもできない。大脳はたんに機械的なものにすぎない。マインドがどんなことを望んでも、大脳はそれを行なうだが、もしあなたが離れていたら、思考はその力を失う。さもなければ思考が権力を持つ。そして、そのためにあなたは瞑想を恐れるのだ。
 だが私はこうして生きている――瞑想では誰も死なない! 実際のところ、マスターはただあなたを池まで連れて行って、水鏡の中のそのふたつの顔を見せる以外は何もできない。私は生きており、しかも私にはどんな条件づけもない。すなわち、私はどんな宗教にも属さず、私はどんな政治イデオロギーにも属さず、私はどんな国家にも属していない。私は自分を、「聖典」と呼ばれるようなあらゆるたぐいのナンセンスでいっぱいにしてはいない。私はただ思考を脇に押しやってしまった。
 私は大脳を直接使う。すなわち、どんな条件づけの必要もなければ、どんな仲介人も要らない。
 だがあなたの恐怖は理解できる。あなたは特定の考え方で育てられた。だから恐らくそれを失うことを怖がっているのだろう……。
 あなたは失うものなど何も持っていない。あなたは個を持っていない――それは瞑想を通して手に入れることができるものだ。あなたは自由を持っていない。そう言えるのは、あなたの思考があなたの隷属だからだ。もし自分の思考を脇に取り外すことができたら、あなたは自由を手にすることができる。
 あなたは恐怖でいっぱいになっている。
 恐怖とは基本的に死と結びついている。
 もしあなたが瞑想して自分自身を知ったら、あなたは死が存在しないことを知る。

 

 

Osho, The Path of the Mystic, より抜粋