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真の教育

 OSHO,教育とは何でしょうか?

 人は種子として生まれる。人は可能性として生まれる。人は、人そのものとしては生まれない。そしてこれは非常に特別なこと、途方もないことだ。なぜなら、全存在の中で可能性として生まれてくるのは人間だけだからだ。他の動物はみな、完全な状態で生まれる。

 犬は犬として生まれる。犬は生涯を通じて同じままだ。ライオンはライオンとして生まれる。人間は人間としては生まれない。人間は種子として生まれるにすぎない。彼は人間になるかもしれず、ならないかもしれない。人間には未来がある。他の動物には未来がない。動物はすべて、本能的に完全なものとして生まれる。人間は唯一、不完全な動物だ。それゆえに成長が、進化が可能だ。

 教育とは可能性と、その実現との架け橋だ。

 教育とは、人が種子の形でのみ存在しているそのものになるのを助けることだ。そして、それこそが、私がここでやっていることだ。ここは教育の場だ。普通の小学校、中学校、高校、そして大学で行なわれているものは教育ではない。あれは、あなたたちが良い仕事につけるように、良い稼ぎができるように準備しているに過ぎない。それは真の教育ではない。それは、あなたたちに命を与えはしない。あなたたちにましな生活を与えることはできるだろうが、より高い生活水準がより良い生の基準ではない。それは同じことではない。

 世間で行なわれている、いわゆる教育は、パンを稼げるように準備するものに過ぎない。そして、イエスは「人はパンのみにて生きるにあらず」と言う。ところが、それこそが大学がやってきていることだ。それは人をましなやり方で、もっと容易にもっと楽をして、より少ない努力でより面倒なことなしにパンを稼げるように準備するものだ。学校がやっていることは、すべてあなたたちがパンとバターを稼げるように準備することだ。これは実に、まことに原始的な教育だ。それは、あなたたちを生に向けて準備することはない。だから、こんなにもたくさんのロポットがまわりを歩いているのだ。彼らは、店員としてなら、駅長としてなら、徴税官としてなら完壁だろう。彼らは完壁で熟練している。

 だが、その内面を覗き込んだら、彼らは乞食以外の何者でもない。彼らは、たったのひと口も生を味わったことがない。彼らは生の何たるかを、愛の何たるかを、光の何たるかを知らない。彼らは神のことなど何も知らない。存在を何ひとつ味わったことがない。彼らは歌うことも、踊ることも、祝うことも知らない。彼らは生命の文法を知らない。まったくの愚か者だ。確かに、稼ぎはする――他の人たちより、もっともっと稼ぎ、きわめて熟練しており、成功の梯子をどんどん上り続けてはいる――だが内面深くでは、彼らは空虚で貧弱なままだ。

 教育とは、人に内なる豊かさを与えるためのものだ。単により多くの情報を与えるためのものではない。そんなものは、きわめて原始的な教育観だ。私が、それを原始的だと言うのは、それが恐怖に根ざしているから――「ちゃんとした教育を受けていないと、私は生き延びられない」という恐怖に根ざしているからだ。私が、それを原始的と呼ぶのは、奥深くではそれがきわめて暴力的なものだからだ。それは人に競争を教え、人を野心家にする。それは食うか食われるかの、誰にとっても他人が敵である競争社会の準備に他ならない。

 だからこそ、この世は精神病院になってしまった。愛は起こり得ない。誰もが他人の喉首を掻こうとしているような、このような暴力的な、野心に満ちた競争社会にどうして愛が起こり得よう。これが非常に原始的なのは、「もし充分に教育を受けていなければ、うまく守らなければ、充分な知識がなければ、この苦闘の人生を生き延びられないかもしれない」という恐怖に根拠をおいたものだからだ。それは生を闘争としてしか見ていない。

 私の教育に対するヴィジョンでは、生は生き残るための苦闘と取られるべきものではない。生は祝祭と考えられるべきだ。生は単なる競争であるべきではなく、生は歓びでもあるべきだ。歌うこと、踊ること、詩、音楽、絵画、そしてこの世で手に入るあらゆること――教育とは、それに波長を合わせられるように人を準備するものであるべきだ――木々と、小鳥と、空と、太陽と、そして月とに……。

 そして教育は、人がその人自身になれるように支援するべきだ。現状では、模倣者になるように人を準備している。どうすれば他人と同じようになれるかを教えている。これは誤った教育だ。

 正しい教育は、どうすれば自分に、本当の自分になれるかを教える。あなたはユニークな存在だ。あなたのような人は誰もいない。これまでいたこともないし、これからも決して現われることはない。これは神が、あなたに注いだ大いなる敬意だ。これがあなたの栄光だ、ユニークだということが……。

 模倣者になってはいけない。カーボンコピーになってはいけない。だが、それこそが、あなたたちのいわゆる教育がやり続けていることだ。それはカーボンコピーをつくる。それは、あなたたちの本来の顔を壊す。この「教育」という言葉にはふたつの意味がある。両方とも美しい。

 ひとつの意味は、非常によく知られてはいるが、まったく実践されてはいないものだ。それは、人の中から何かを引き出すという意味だ。「教育」とは、あなたの中にあるものを引き出すこと。あなたの潜在能力を現実にすることだ。井戸から水を汲み上げるように。

 だが、これは実践されてはいない。逆に、人から引き出すのではなく、人の中に物が注ぎ込まれている。地理や歴史や理科や数学、そういうものが、あなたたちの中に注ぎ込まれ続ける。人はオウムになる。あなたはコンピュータのように扱われてきた。まさにコンピュータにデータを与えるように、あなたたちに餌が与えられる。

 あなたたちの教育機関とは、頭の中に物を詰め込む場所のことだ。

 真の教育は、あなたの中に隠れているものを――神があなたの中に宝として入れておいたものを――取り出し、発見し、明らかにし、あなたを輝かせるためのものだ。

 そして、この言葉のもうひとつの意味は、もっとずっと奥深い。
 educationはeducareという言葉からきている。それは、あなたたちを闇の中から光へ導く、という意味だ。途方もなく深い意味だ。あなたを、闇から光へと導く。『ウパニシャッド』は「神よ、我らを、虚偽から真実へと導き給え」――「アサト マ サドゥガマヤ」という。「神よ、我らを、死から不死へと導き給え」――「ムリチョル マ アムリタムガマヤ」。「神よ、我らを、闇から光へ導き給え」――「タマソ マ ジョティルガマヤ」。これこそ、まさに「教育」の意味だ。

「タマソ マ ジョティルガマヤ」――闇から光へ

 人間は闇の中に、無意識の中に生きている――そして、人は光に満ちることができる。炎はそこにある。ただ、それは燃え立たせられなければならない。意識はそこにある。ただ、それは目覚めさせられなければならない。人は、すべてを与えられている。あなたたちは、それを自分の中に持ってきている。

 だが人間の肉体を持っているというだけで、自分が人間になったと思っているのはまったく間違っている。そして、その考えが何世代にもわたって途方もない災いの原因になってきた。人はひとつの機会として、好機として生まれてくるに過ぎない。そして到達する人はきわめて少ない。イエスのような、仏陀のような、ムハンマドのような、バハウディンのような人だけだ。ほんのわずかの人びとしか、それもごく稀にしか、本当の人間にはならない――その人が光に満ち、そこにどんな闇も残されていないとき、その人の魂のどこにもどんな無意識もまとわりついていないとき、すべてが光になったとき、その人が意識(アウェアネス)そのものになったときだけだ。

 ひとりの男が仏陀に尋ねた……その男は占星術師で非常に学識のある学者だった。仏陀を見て、彼はいぶかった。彼は、そのような美を、そのような優美さをこれまで一度も見たことがなかった。仏陀は樹の下に坐っていた。彼は、ただただ畏敬の念に打たれた。彼は仏陀にお辞儀をして言った。
「あなたは神なのでしょうか、それとも天使なのでしょうか? あなたは天から降りて来られたのですか? 私は、これまで地上でそのような優美さを見たことがありません。あなたは、どなたなのですか? あなたは、ガンダルヴァなのですか?」
 ガンダルヴァとは神話の言葉で神の楽士だ。彼らは非常に優美だ――当然だ、彼らは神の楽士なのだから。
 彼らの存在そのものが音楽的だ。彼らの臨在のもとにいるだけで、音楽が聞こえ始める。彼らの臨在のもとにいるだけで、まったく別のリズムの中に入り込むことになる。彼らの存在そのものが音楽、天上の音楽だ。そして、その占星術師は仏陀のまわりの音楽を聴いた。
 彼は「あなたは、ガンダルヴァですか?」と尋ねた。
 すると仏陀は「いや、私は神ではない。私は、ガンダルヴァではない」と言った。
「では、あなたは誰ですか? あなたは、ただの人間なのですか?」
 すると仏陀は「いや、私は人間でもない」と言った。
「では、あなたは誰なのです?」
 そして、その男は尋ね続け、仏陀は「いや、いや、いや」と答え続けた。
 彼はますます不思議に思い、ついにこう尋ねた。「では、あなたは誰なのです?」
 すると仏陀は答えた。「私は意識(アウエアネス)だ」

 意識(アウエアネス)、意識そのもの、純粋な意識……そうなって初めて人は満たされる。そのとき生は祝福になる。

 教育とは人を闇から光へと連れて行くことだ。それが、私がここでやっていることだ。あなたがこの質問をしたのは、インド政府が私の仕事を教育として認めようとしないからだ。それは当然のことだ。彼らには、これを教育と認めることはできない。私が店員や駅員や徴税官をつくってはいないからだ。私は新しい人間をつくり出している。彼らにとっては、それは危険なことだ。もし、これが教育なら、彼らにはそれが起こるのを許すことはできない。それは反逆だ。

 私はあなたたちに自分自身であるようにと教えている。私はあなたたちに恐れを知らぬようにと教えている。私は社会の圧力に負けないようにと教えている。私は妥協するなと教えている。私はあなたたちに安楽と便利さを追い求めないようにと教えている。なぜなら、もしあなたたちが安楽や便利さを追い求めたら、社会はそれをあなたたちに提供するだろうが、それは、ある代償と引き換えだからだ。そして、その代償は大きい。あなたたちは便利さは得るが、自分の意識を失う。安楽は得るが、自分の魂を失う。

 人には尊敬されるだろうが、そうなると自分自身に対して真実ではなくなる。あなたは偽りの人間になる。あなたは自分の神と自分自身を裏切ったのだ。だが社会はそれを、あなたが自分自身を裏切ることを求める。社会はあなたを機械として使いたい。社会は、あなたが従順であることを求める。知性ある存在として働くことを必要としてはいない。なぜなら知性ある存在は知性的に振る舞うことになり、「いや、私にはそれはできない」というような瞬間があるかもしれないからだ。

 例えばもし、あなたに本当の知性があり、かつ醒めていたら、軍隊の一部になることなどできはしない。あり得ない。軍隊の一部になるためには、基本的条件として非知性的であることが必要だ。だからこそ軍隊はあらゆるやり方で、あなたたちの知性を何とか壊そうとする。あなたたちの知性を破壊するには何年も要する。彼らは、それを「訓練」と呼ぶ。愚かしい命令に従わなければならない。右向け右、左向け左、前へ進め、回れ右――あれやこれや――毎日、朝も夜もこれを繰り返す。ゆっくりゆっくり、人はロポットになり、機械のように動き始める。

 聞いた話だが、ひとりの女性が精神分析医のところに行ってこう言った。「私はとても心配で眠れません。私の夫は陸軍大佐です。いつも夫が休日で帰るたびに、それは私にとって悪夢になります。夫は右側を下にして寝ると必ずいびきをかきます。そのいびきがあんまり大きいので、私が眠れないだけでなく、近所の人まで起こしてしまうのです。何か良い方法はあるでしょうか? 私はどうしたらいいのでしょう?」。精神分析医はじっくり考えてからこう言った。「ひとつ、今晩こうやってごらんなさい。多分効き目があるでしょう」。そう言って、彼はある処方を授けた。そして、それは効き目があった。その処方というのは単純だ。精神分析医は彼女に、こう言ったのだ。「ご主人がいびきをかき始めたら、『左向け左』と言ってごらんなさい」。彼女には信じられなかったのだが、彼女がそう言うと、それは彼が眠っていてさえ効果があった。彼は右を下にしているときだけ、いびきをかいた。そして、彼女が夫の耳にゆっくりと、さして声を上げるでもなく「左向け左」と言うと、彼は長い間の習慣で左に寝返った。眠っているままで、いびきは止まった。

 ウィリアム・ジェームズが次のような事例を、実際の具体例として取り上げたと聞いたことがある。第一次大戦後、陸軍を退役したある男がバケツいっぱい卵を入れて、頭に載せて運んでいた。すると道路際に立っていた2、3人がそれをからかった。彼らのうちのひとりが大声で「気をつけ!」と言った。するとその男はさっと「気をつけ」をした。バケツが転がって卵が割れて道路中に広がった。彼は激怒した。「冗談にもほどがある」。だが彼らはこう言った。「俺たちは何もしていない。俺たちはただ、気をつけ、と言っただけだ。そんなことも言ってはいけないのか?」。その男は陸軍を退役してから少なくとも10年は経っていた――しかし、それは残っていた。

 これも聞いた話だ。不眠症のボクサーが何か薬を処方して欲しいと医者のところに行った。この元ボクサーは軽い睡眠剤を飲んでみたがどうも効き目がなかった。医者はより中毒性の強い薬を処方するのをためらって、こう言った。「いいですか、この強い注射を処方する前に、古い治療法を試してみたいんですがね。あなたは笑うかもしれませんが、それが実際に効くんですよ。完全にリラックスして、それから100まで数えてみてください」。数日後、老ファイターはやって来て言った。「先生、あれは駄目ですよ。数を数え始めるたびに、9まで数えると私は飛び起きてしまう」

 軍隊のあらゆる訓練は、人の意識を破壊し、その人を自動機械にしようとする。そうなれば、その人間は出かけて行って人を殺すことができる。

 そうではなく、わずかの知性でもまだ残っていたら、あなたには自分が殺している相手には何の罪もないことが分かるだろう。彼は、あなたにも他の誰にも何をしたわけでもない。それに相手にも彼が戻るのを家で待っている妻がいるに違いない。そして彼には子どもがあり、その子たちは乞食になることだろう。それに年老いた母や父がいるかもしれない。その人たちは気が狂ってしまうだろう。「それなのに、なぜ私はこの男を殺そうとしているのか?」。上官が、「用意! 撃て!」と言ったからに過ぎない。

聡明な人間なら撃つことはできない。聡明な人間は罪のない人びとを殺すくらいなら、むしろ自分が死ぬことを選ぶだろう。

 どこかの馬鹿な政治家が戦争を始めたいと思ったがために、そういう政治家たちが、もっと権力を得たいと望んだがために、そういう政治家たちの愚かしい声明のために、その戦争は始まった。聡明な人間なら殺すはずがない! これを私は教育と呼ぶ。人びとをもっと聡明にすることを。そして、それこそが、ここで私がやっていることだ。もし、この火が広がるなら、この古い腐敗した社会は生き延びることはできない。それが生き延びているのは、あなたたちの無意識を餌にしているからだ。それは、あなたたちの無意識を食べて生きているのだ。だから、政府がこの場所を教育の場所として認めようとしないのは当然のことだ。彼らにとって、ここは最も危険な場所のひとつだ。

 だが私に関する限り、これが教育だ。「タマソ マ ジョティルガマヤ」――神よ、我らを闇から光へと導き給え。

 

 

Osho, The Secret, #2, 
邦訳『ニューチャイルド』(OEJ刊)より抜粋