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瞑想を勧める方法

瞑想を勧める方法

 Osho,人びとに瞑想を勧める最善の方法はなんでしょうか?

 まず第一に、病人を医師のもとに行かせるには、彼に自分は病気なのだと気づかせなければならない。病気でなかったら医師のもとになど行かなくてもよい。だから瞑想を勧めたいと思う人びとに対して、あなたは彼らに自分たちがフラストレーションに陥っていることを、たぶんあまりにもそれが長いので自分たちのなかに悲しみがあることを忘れてしまっているということを気づかせなければならない。彼らもかつてはこころの底から笑ったことがあるのに、それを思い出せない。彼らはロボットになっている――やらなければならないことがあるのでやっているが、それをやることに喜びはない。
 彼らは行き当たりばったりに生きている。彼らの誕生は偶然であり、彼らの結婚は偶然であり、彼らの子どもたちは偶然の産物であり、彼らの仕事も偶然に得られたものだ。彼らの人生には本質的な成長と方向性の感覚がない。彼らが祝い喜びたいと感じないのはそのためだ。

 だからまず彼らに自分の居場所を自覚させなければならない――ほとんど誰もが同じ情況のなかにいる。死が近づいてくる――自分が明日もここにいるのかどうかさえ当てにはならない。そしてあなたの生はまさに砂漠のようなものだ――どこにもオアシスは見つからないし、いかなる意味も意義も感じたことはない――しかも死が未来のすべての可能性を打ち壊してしまうかもしれない。
 だからまずあなたは彼らにその生の無意味さを、偶然性を、フラストレーションを自覚させなければならない。彼らはそれを知っているが、それをさまざまなやり方で抑圧しようとする。なぜなら、それをいつも思い出すのは苦しいからだ。だから彼らはそれを忘れるために映画に行く。彼らはパーティーに行き、ピクニックに行き、酒を飲む。ありとあらゆることをする――自分の人生の現実を、自分の空虚さを、むなしさを思い出さなくてもいいように。

 これがいちばん大事な部分だ――彼らに思い出させるということが。こういったすべてのことを思い出したら、彼を瞑想に導いてゆくことはごく簡単なことだ。なぜなら、瞑想は人間のすべての疑問への唯一の解答だからだ。問題はフラストレーションかもしれないし、落ち込みかもしれないし、悲しみかもしれないし、無意味さかもしれないし、苦悩かもしれない。問題は数多くあるが答えはひとつだ。
 瞑想がその答えだ。そしてもっとも簡単な瞑想の手法はただたんに見守っていることだ。瞑想には112の手法があるが、目撃することはこれら112の瞑想法のいちばん本質的な部分だ。だから私にとっては、目撃することが唯一の手法だ。これら112の手法は〈目撃〉をさまざまな情況に適用させたものにすぎない。
 本質的な核、瞑想の魂は、いかに目撃するかを学ぶことにある。

 たとえば1本の樹を見ていたとする。あなたはそこにいて、樹がそこにあるが、もうひとつのものを見つけることはできないだろうか?――あなたは樹を見ているが、あなたのなかには、その樹を見ているあなたを見ている目撃者がいる。
 世界は客観的な対象と主観とにだけ分けられるのではない。さらにこれらの両者を超えたものがあり、その超えたものとは瞑想だ。

 だからどんな行為をしているときも……。私は朝や夕方に1時間か30分坐るというやり方には賛成しない。そういったたぐいの瞑想は役には立たない。なぜなら、たとえ1時間瞑想したとしても、残りの23時間でまったく逆のことをやってしまうからだ。
 だが、瞑想で成功を収めることもできる――〈目撃〉という手法なら、1日24時間にまで広げることができる。
 食べているときも、食べている人に同化してしまってはいけない。食べ物がそこにあり、食べる人がそこにいて、あなたはここにあって、見守っている。歩くときも、肉体に歩かせて、あなたはただたんに見守っている。だんだんとそのコツが呑みこめてくる。それはコツであって、いったん小さなことでも見守ることができるようになれば……。
 あそこのカラスが、いま鳴いている……あなたはそれを聞いている。そこにはふたつのもの、客観的な対象と主観がある。だが、その両方を見ている目撃者を見ることはできないだろうか?――カラスと、聴き手がいるが、さらにその両方を見守っている者がいる。だからそれはじつに単純な現象だ。次にあなたはさらに深い層のなかに入ってゆくことができる。自分の思考を見守ることができるし、自分の感情、気分を見守ることができる。
 「私は悲しい」などと言わなくてもよい。事実は、あなたは悲しみの雲が自分の上を通り過ぎてゆくのを見ている目撃者だということだ。怒りがあっても、あなたはただ目撃者でいればよい。「私は怒っている」などと言わなくてもよい。あなたが怒ったことはない――あなたが怒ることなどできない――あなたはつねに目撃者だ。怒りは来ては去ってゆく。あなたはただの鏡だ。ものごとがやって来ては、そこに映り、去ってゆく――鏡は空っぽで清らかなまま、映ったものに傷つけられることはない。

 〈目撃〉とは、あなたの内なる鏡を見つけることだ。
 それを見つけさえしたら、奇跡が起こりはじめる。思考をただたんに見守っていると、思考は消えてゆく。すると突然、今までに一度も知らなかったような深い静寂が感じられる。気分を見守っていると――怒りや、悲しみや、幸せを――それらが急に消えうせて、さらにもっと深い静寂が体験される。
 そしてなにひとつ見守るものがなくなったとき、そこで革命が起こる。なにひとつそれを妨げるものがないので、なにも対象が残っていないので、〈目撃〉のエネルギーはそれ自身へと返ってゆく。この「対象(オブジェクト)」という言葉は美しい。それはまさにあなたを妨げるもの、あなたに対抗(オブジェクト)するものを示している。あなたの目撃に対立するものがなくなったとき、それはたんに自分自身へと戻ってくる――源泉へと。人はこの地点で光明を得る。

 瞑想は道にすぎない。目的地はつねに仏性であり、光明だ。そしてこの瞬間を知るならすべてを知ることができる。
 そうなったら惨めさはないし、フラストレーションはないし、無意味な感じもしない。そうなったらもはや生は偶然の所産ではない。生はこの宇宙的な全体の一部になる――その本質的な一部に。そしてこの全存在があなたを必要としているという、途轍もない至福が湧きおこってくる。
 人間の最大の必要は必要とされるということだ。誰かに必要とされていたら、あなたは満足を感じる。だが、全存在があなたを必要としていたら、あなたの至福は限りないものになる。そしてこの存在は最大の星と同じように小さな草の葉ですら必要としている。

 不平等ということはありえない。誰もあなたの代わりとなることはできない。もしあなたがいなくなったら、存在にはなにかが欠けてしまい、それはいつまでも欠けているだろう――それが埋められることはない。その感覚――この限りない全存在があなたを必要としているという――があなたからすべての惨めさを取り去ってしまう。
 いまや初めて、あなたはわが家にいる。

 

Osho, Light on the Path