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化粧は醜い人びとが発明したものだ。化粧が醜いというのではないが、化粧そのものは醜い人たちの発明だ。醜い人は自分を自然に美しい人と比較して劣っていると感じる——嫉妬し、競争したくなる。醜い人はそれを人工的な方法で償おうとする。自然な人は償う必要がない。だが、自然に美しい人はとても少ない。だから、化粧はほとんど当たり前のことになっている。
何千年も、人間は自分の体の、心の、魂の醜い部分をあらゆる方法で隠そうとしてきた。自然に美しい人びとですら醜く人工的な人びとを真似するようになったが、それは人工的なものが目を騙すことができるからだ。例えば、自然なバストは美しく見せかけたバストと比べたらそれほどきれいに見えない。ある女性が自然にきれいなバストを持っていても、だんだんと感じるようになる——自然にきれいでないバストの女性でも、それを実際よりずっときれいに見せかけることはできる、と。だから自然にきれいな人も真似をするようになる。
メーキャップと、メーキャップにかかわるすべての考えは、基本的に欺瞞だ。人は自分の本性を愛し、受け容れるべきだ……それも肉体的なレベルだけでなく。なぜなら、そこから旅が始まるからだ。そこで偽っているのなら、心に関しても同じように偽りを演じてどこが悪いのか? それなら、本当はそうでなくても、聖者や賢者のふりをしてどこが悪いのか? 理屈は同じことだ。そしてときには偽者が本物を打ち負かすということが起きる。なぜなら、偽者は練習し、リハーサルし、あの手この手と都合をつけ、ごまかすことができるからだ。
私は自然でないものはすべて悪いと言っているのではない。
自然を改良することはできる。知性はそのためにあるが、ただそれは自然に反するべきではない。
例えば、唇はよりよい食事や、よりよいエクササイズや、よりよい医薬品によって赤くなる。それもまた自然の改良だが、自然なやり方で自然を改良している。口紅をつけるのは安易なやり方だ。それは本当は改良ではない。舞台に立つときはいいが。
女性が脚や腋の下を剃るのもいい。それはいいし、衛生的だ。それ自体なにも悪くはない。ただ、あなたが自分の体を清潔にしようと十分に気を配らないのなら……。毎日のように入浴し、体を清潔にするなら、腋の下の毛も悪くはない。それがあってまずいということはない。それを取り除く必要はないし、あるべくしてそこにある。だが、あなたが風呂に入らず、あなたが衛生的でなく清潔でないなら、確かにそれは埃を集めたり、汗をためたりして、臭くなってしまうだろう。それならそれは取り除いたほうがいい。私はそれを取り除くことに反対してはいない。あなたの脚の毛を剃って、見た目にきれいにするのもけっこうなことだ。
……あなたは他人を騙すことはできるが、はたして身近な人たちを騙すことができるだろうか? そして彼らを騙していいのか? それにもし彼らがあなたを、あなたのバストのせいで愛しているのだとしたら、そのバストが偽物だと、プラスチックやゴムだとわかったとき、彼らの愛は残っているだろうか? それは消えてしまうだろう。全人類が偽者になってしまった。騙すこと、見せかけることしか考えていないようだ。
自然はそれがみずからを超えるように手助けされるべきであり、抑圧されるべきではない。自然が抑圧されたら、あなたは分裂症的になりはじめる。あなたは二つの個性を持つようになる。ひとつはあるままのあなた、もうひとつは他人に見せるあなただ。そしてあなたは自分のなかで完全に混乱してしまうかもしれない。自分はだれなのか? あれか、これか? 二つの性格を持つだけでなく、たくさんの性格を持たなければならなくなる。母親は子供に対してひとつの性格を持ち、母親のふりをしなければならない。そして夫に対しては妻のふりをしなければならない。そして恋人に対しては恋人のふりをしなければならず、もうこうなるときりがない。だから彼女は自分の周囲にたくさんの性格を持つことになり、こうしたたくさんの性格の密林のなかで、自分本来の個性は迷子になってしまう。自分の本来の顔を見つけることはとても難しくなる。
あなたは言っている、「メーキャップは女性の自然な美しさを精神的に高めるためにも使える……」
これはまったくばかげている。精神性はどんなメーキャップによっても高められない。
精神的な美しさは、外側からなしうるものといっさいかかわりがない。
精神性はあなたの本来の顔だ。それはあなたに内在する本性の発見だ。それは手を加えるべきものではなく、塗りたくるべきものではなく、とりつくろうべきものではない。それに脚のむだ毛はない。それには脚も、腋も、唇もないからだ。
あなたの内奥の存在は純粋な意識だ。それに化粧はいらない。
私のここでのすべての努力は、あなたがあなた自身になれるよう、性格から完全に解放されるよう手助けすることだ。性格はあなたを取り囲んでいる偽りのものだ。個性は実在からの贈り物だ。それはすでにあなたの内側にある。自分の性格を落としたら、あなたはそれを発見するだろう。性格が取り除かれたとたんに、それが湧き上がってくる。
本当の生は自然なものでなければならない。そして本当の生はいつの日か自然を超えなければならない。だが、自然がその基盤にならないといけない。自然に反するのではなく、それを隠すのではなく、自然の内奥の核を発見することだ。
そこで超越が起きるが、それはもっとも美しい経験だ。それはあなたを、あなたの体を、あなたの心を、あなたの魂を美しくする。それはあなたを美しくするだけでなく、あなたと触れ合う人たちをもまた美しくする。この美は彼方に属している。それは恩寵と呼ばれる。なにかが上から降りてきて、あなたをあふれさせる。
Come, Come, Yet Again Come
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